エックハルト・トールおすすめの瞑想法…雑念で瞑想がうまくできない方へ

雑念で瞑想がうまくできない

瞑想というと、どうしても難しく考えてしまいますよね。

でも、ブッダに言わせれば「考える」から難しくなるんだから、「考えることをやめる」ことだね、という感じでしょうね^^;

 

頭ではわかっているのですが、なかなか実践が難しいです。

ですので今回、現代の悟りの名人であるエックハルト・トールさんの動画で瞑想を勉強していきたいと思います。

 

 

エックハルト・トール氏、絶好調のもよう

スピリチュアルの先生は、みんな怪しいんですけれど、エックハルト・トールさんの動画は、とても参考になります。

 

この動画は、エックハルト・トールさんの絶好調な感じの動画ですね。

お客さんにウケまくっています。

なかなかノリのよいお客さんが多いみたいで、心なしかトールさんも楽しそうですね。

とまあ、前置きはこの辺にして、動画の内容に入っていきましょう。

 

うまく瞑想をしたければ「瞑想をする」と考えないだって!?

はじめにトールさんはこんなことをおっしゃっています。

うまく瞑想するためには「瞑想をする」という考えがかなり邪魔なものになります。

いきなりこのセリフでウケています。

うまく瞑想をするには「瞑想をする」と考えない方がよい、というのは一見、矛盾を抱えた言い方ですから、ウケちゃうのも無理はないことですね。

 

しかし、これは一体どういうことでしょうか?

トール氏は続けます。

「瞑想」という言葉についている先入観、期待をなくしていきましょう

瞑想というのは、決して「新しい自分に目覚める」とか「宇宙エネルギーを蓄えて、健康になる」とか、そういったものではありません。

そういった考えをもってしまうのは、自我(エゴ)の仕業であり、このエゴがこういったチャチャを入れてくるので、瞑想が失敗し、悟りに至れなくなるのです。

 

瞑想というのは、このエゴのチャチャ入れを封殺するためのものですから、いかにもスピリチュアルウケしそうな、魔法的な力やチャクラがどうとか、そういったことは考えるべきではありません。

そういったことはすべて雑念です。

 

瞑想の本質は、無になることです。

無になることができれば、悟りを得ることができます。

 

ですから、いかにして恣意的に無になるか、ということを考えたものが瞑想ですので、ここはもう「瞑想」などと言わずに「無になること」という風に瞑想を言い換えた方が、自然かもしれません。

詳しくは、下記の記事をご参照ください。

歩きながらでも瞑想はできる? 「止観瞑想」のやり方

 

瞑想は、無になるためのもので、宇宙パワーが得られたりするものではない

そして続けてトール氏は

一般的に「瞑想」は「するもの」だと思われています。色々ある活動のひとつです。

(中略)

「するもの」とは関係ありません。「するもの」ではありません。

「瞑想」とは「気づき」です。

「気づき」=「あなたという存在の本質」です。

(中略)

すべての行動に先立ってあるものです。思考や感情以前にあるものです。

これはつまり、私がご説明させていただいた、瞑想が「宇宙パワー」のようなものを奮い立たせるものではないという話ですね。

 

瞑想が「何か」をもたらすわけではありません。むしろそういった「何かしらのモノ」に先立っているものだということです。

何かが起こる、何かが湧き立つ、そういった「何か」の前の段階にいること。

これが瞑想の本質です。

 

ポイント:瞑想は「すべてをやめる」もの

瞑想はすべてを投げ出すもの

トール氏は「『するもの』とは関係ありません」という説明のとき「Do」ではない、という説明の仕方をしています。

これはとてもわかりやすいですね。

「Do」であることすべてを、やめること。これが瞑想です。

意味のあることは何もしないのです。

瞑想で何かを得られるわけではなく、むしろ何もかもを捨てるために、瞑想をするのです。

 

ポイント:達観するために瞑想をするわけではない、達観もエゴの妄想

ですからトール氏はいいます。

「本当のあなたに気づく」ということではありません

 

また、宇宙全体の中であなたがという小さな存在がどのような位置付けにあるかに気づくことでもありません

そう、こういった漫画に登場しそうな「劇的な変化」「劇的な何か」は、すべてエゴによる妄想です。

  • 「いま、すべてがわかった!」
  • 「私は悟りを得たのだ!」
  • 「そうか、そうだったのか!」

こういった達観するような感覚はすべて妄想です。

こういった妄想を叩き潰して、妄想が起こる前の段階に脳を維持させること、これが無の境地であり、瞑想の極意であり、悟りです。

 

ポイント:瞑想をしても、何か新しい発見があるわけではない

頭でなにひとつ理解する必要もなく完全性とひとつになるということです

完全性とひとつになる、という言い方がまた劇的な言い方なので勘違いしてしまいがちですが、ようは

  • 理解したい
  • わかりたい
  • 考えを明らかにしたい

こういった「合点を得たい」という気持ちがあり、そして合点を得たときに、悟りが開けるのだと思ってしまいがちですが、そんな劇的なことは何一つ起こりません。

そういった思考が起こる以前の段階のまま、毎日を過ごすこと。

それが悟りです。

 

瞑想に関するエックハルト・トール氏の実践的なアドバイス

瞑想の練習

トール氏は瞑想をするにあたり、興味深いアドバイスをしてくれています。それは、

一瞬でもいいから「過去と未来はない」ふりをしてみることです

とのこと。

 

このことを理解するためには、ぜひ下記の記事をご覧になってみてください。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

この記事には、なぜ過去と未来のことを考えない方がよいのか、について書いています。

この記事を読んでいただければ、トール氏の説明が、実に科学的だということがわかります。

 

読むのが面倒臭いという方に簡単に説明しますと、エゴは未来のために、今があると考えるのです。

今がいくら辛くても、未来のために頑張るのだと。

しかし、いつまでたっても、その「幸せな今」はやってこないのです。

仮に幸せがやってきたとしてもエゴは「その幸せがいつまで続くと思っているんだ? さあ、未来のためにもうひと頑張りすることだ」と、いつまでも永遠にけしかけてくるのです。

 

そして、過去を振り返り「あんなこともあった」「こんなこともあった」と後悔させて、それをまた未来への原動力に駆り立ててきます。

こんなことをしていたら、永久に幸せにはなれません。

 

ですからトール氏や悟りの先生のみなさんは、そんな過去や未来のことを考えるのをやめよう、とおっしゃるのです。

なぜなら、過去はもう二度とやってこないし、未来もまだやってきていなのです。

どちらも妄想の世界であり、存在するのは「今」だけだからです。

「今」に集中することこそ、瞑想の極意であり、悟りです。

 

自我が騒ぎ立たないように、過去と未来がない「ふり」をする

そしてまたここでトールさんは面白いことをおっしゃっています。

「ふりをしてみてください」と言ったのでみなさん、ついてこれていると思います。もし私が「過去も未来もない」と言っていたとしたら、みなさんの中には、いきなり「なんだって!?」「これが終わったらサイン会をするんですよね?」と思考が回りだす人もいたでしょう

これも実に示唆に富んだジョークですね。

実際には、過去も未来も「今ここ」にはないわけですから、存在していないのですが、過去と未来を頼りにして生きている自我=思考は、「過去も未来もない」と言ってしまうと、とたんにざわつきだすわけです。

 

過去も未来もないだって!? じゃあなにを指針にして生きたらいいんだ!? と。

 

ですから「ふりをしてみる」ことが効果的だとトール氏は言うんですね。「ふり」であれば、エゴもそこまでざわつきませんから。

エゴは思っているわけです「『ふり』であるならいいや」と。

 

頭で考え始めた途端、マインドの世界にそれていってしまうのです

これはつまり、現実という世界から逃げて、妄想の世界にふけってしまう、ということですね。

思考は現れると、あなたの注目を引っぱり込み、それであなたは考え始めるわけです

考え始めると、思考にあなた自身が乗っ取られ、すべて自我のいうまま、思うままにあなたがコントロールされてしまうのです。

 

瞑想というのは、思考をもたらす自我に自分を乗っ取られないよう、自身をありのままに保つための訓練なんですね。

無になることで、物事の本質が見えてくるわけです。

 

この動画の最後で、トール氏はこう締めくくっています。

「今ここ」だけがあります

と。

 

小池龍之介さんが一番お勧めされているのは呼吸瞑想

呼吸瞑想で悟りを開く

小池龍之介さんが一番お勧めされているのは呼吸瞑想だそうです。

瞑想の役割は思考を止めることです。
思考、つまり左脳の暴走状態にある我々は、あるがままの状態を享受させてくれる右脳が機能していません。

そのため、苦痛を感じてしまいます。

そのことについての記事はこちらに詳しいです。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

 

小池さんはご自身が管理されている月読寺のほか、カルチャーセンターなどでも座禅指導をされているそうです。

そこでよく教えていらっしゃるのが呼吸瞑想だそうです。

ではその呼吸瞑想について書いていきたいと思います。

 

悟りはスピリチュアルなものではありません

瞑想によって、アセンションがどうとか第3の目が開いたとか、天使が見えたとか、宇宙の波動がどうとか、色々と怖いことを言う人がいますが、基本的にはそれ自体が左脳による妄想か、夢の一種だと私は考えています。

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もちろん、超常現象的な力を否定するわけではないのですが、現実主義者にとっては、そういったオカルトな情報は悟りに特殊な妄想を抱いてしまい、かえって気づきを遠ざける気がします。

そんなスピリチュアルでオカルトな空想を持たなくても、左脳の働きを抑制し、右脳を活性化させれば悟れると私は考えています。

 

上記のリンク先で、スリランカの僧侶であるアルボムッレ・スマナサーラさんも

「思考をやめるのは物凄い難しい」

「左脳が、何兆もの細胞が思考させるために構えているのだから大変です」

「しかし、ちゃんと頑張る(思考を止める)とだいたい2週間で成功します」

「思考を止めてみたら悟れます」

「たったそれだけです」

と、実にあっさりと「悟れますよ」と語ってくれており、スピリチュアルパワーや天使の力を借りなくても、普通に思考を止めるだけで悟れるということですから、その言葉を私としても心強く思っています。

 

呼吸瞑想のやり方

さて、この呼吸瞑想はとても簡単です。
自分が行っている呼吸に意識を集中させるというものです。

 

 

  1. 目を閉じる
  2. 自分が鼻を通じて、吸っている息や吐いている息に意識を向け、集中する
  3. 自分が息を吐いている、吸っていることに気づく

 

意識しなければ普段、気づかないことに意識をするわけです。

呼吸は刺激が少ないものですから、普段は大きな音や、食欲、性欲、怒り、不満、悲しみといった強い刺激にまみれて気づかないものです。

 

しかし、意識をしなければ気づかないものに、気持ちをあえて向けることで、高い集中力が付きます。

集中力をつけると、強い刺激がなくても集中できるようになってきます。

自我という強い刺激に支配されない自分を作っていくわけです。

 

雑念も湧きますが、湧いてきた雑念は「雑念、雑念、雑念」と10回くらい心の中で唱えることで、単なる雑念だと俯瞰させ、打ち消していきます。

 

この呼吸のうっすらとしたとした刺激に集中できた時点で、思考は完全に消え、「空」を体感できます。

小池さん曰く「完全に掃除されて、リフレッシュされた状態」になります。

 

 

 

基本的には、難しく考えずに、ただあぐらをかいで座るか、椅子に座ってやれば良いと思います。

呼吸瞑想における細かい座禅の組み方などは、下記をご参照ください。

座禅の組み方、「結跏趺坐」「蓮華座」をする意味、理由とは…

 

 

座禅瞑想は、難しい知識もルールもなく、呼吸に意識を向けるだけ、という非常に簡単なものです。「簡単だから悟れない」ということもありません。

 

座禅瞑想だけで十分に悟れると思います。

座禅の組み方、「結跏趺坐」「蓮華座」をする意味、理由とは…

結跏趺坐のやり方

瞑想の一種である座禅。

これには結跏趺坐(けっかふざ)、蓮華座(れんげざ)という、座禅における基本形があります。

上の画像をご参照ください。これがその結跏趺坐、蓮華座です。どちらも同じ意味です。

私はなぜこんな座禅の組み方をするのか不思議でした。

 

だって、痛いですもん(笑)

 

仏像をみても、みんながみんなこの足の組み方をしていますから、このやり方には意味があるんでしょう。

では一体どういう意味があるのでしょうか。

 

足が痛くなるだけの結跏趺坐に意味はあるのか

結跏趺坐をやってみると、めちゃくちゃ痛いです。そしてできない。さらには血流が止まる。

結跏趺坐で足が痛い

こんなこと、どうしてしなくてはならないのかと不思議でした。

 

しかし著書「考えない練習」で知られている小池龍之介さんが、この結跏趺坐の意味を答えておられました。

その理由は単純明快です。

 

長時間座っていても、足が痛くならないから。

 

もちろん、関節が柔らかくなって、慣れてからのことですが、慣れると、長時間座っていても足が痛くならないそうです。

 

たとえば正座。これはすぐに痛くなりますよね。

椅子に座っていても、すぐに痛くなります。

しかし、結跏趺坐は痛くならないのだそうです。

6、7時間座っていても平気でいられるようです。

 

ちなみに、私は結跏趺坐ができませんので(笑)、実践していませんが、お釈迦様が悟られた時にもこの結跏趺坐で座しておられ、小池さんも実際にされております。

また、インドの昔の仏教者で非常に高名な龍樹(ナーガールジュナ)さんがまとめた「大智度論」7巻には次のようなやり取りがあります。

 

「多くの坐法有り、仏、何を以ての故に、唯だ結跏趺坐のみを用いるや」

答えて曰く、「諸の坐法中、結跏趺坐、最も安穏にして、疲極せず」

 

これを現代風に訳しますと、

「いろんな座禅があんのに、悟っている人はなんで結跏趺坐しかせえへんのや?」

答えて曰く、「いろんな座禅の中で、結跏趺坐が一番楽で、疲れへんのや」

 

とのことです。

従って、結跏趺坐は疲れないというこの理屈は信ぴょう性が高いと思われます。

私自身も関節を柔らかくし、実験してみたいとは思っております。

 

 

ちなみに、結跏趺坐の中でも意味のないものがあります。

結跏趺坐のうち右足を上にするのが「吉祥坐」、左足を上にするのが「降魔坐」などと言うそうですが、これはどうでもよいと思います。

 

もしかしたら、どちらかを上にすればより右脳を活性化し、左脳を抑制するというような作用があるのかもしれませんが、そこにこだわって自我がでしゃばってくるよりも、思考を止めることに集中した方が良さそうです。

お釈迦様もおそらく「どっちでもいい」とおっしゃると思います。

あまり気にせずやりましょう。

 

半眼になる意味や、効果があるのか

半眼。座禅

また「半目を開ける」ということを勧める本もあります。

お釈迦様が半目、かっこ良く言いますと「半眼」だったからだそうです。

 

これはどういうことなんでしょうね。

「半眼になって、鼻先をみる」というのが基本的なポーズらしいです。

これをやってみると、なるほど、視線を鼻先に集中させるため、思考が生まれにくいですね。

また、眠ってしまうことがなくなるかもしれません。

 

 

 

 

私はまばたきが気になるので、目は閉じます。小池さんも目を閉じることを勧めておられます。どちらでもよろしいのではないでしょうか。

 

私が思うに、お釈迦様が半眼だったのは、半眼になったまま寝ている人がいるように、自然にそうなっただけのような気もいたします。

 

ちなみに、寝ているとき、人の目は動いているそうです。

脳機能学者の苫米地英人先生の著書によると、記憶を司る「海馬」という脳の神経と、目の神経はつながっているそうです。

人間は寝ている間に、起きているときの記憶を整理するそうで、寝ている間に海馬がピコピコと働いているそうです。

そのときに、目の神経も釣られてピコピコと動いてしまうそうです。

 

苫米地先生によると、寝ている時と同じように、目を閉じて、眼球を上の方に向けると、寝ている時に海馬が情報処理を行っているのと同じような効果が出るそうです。

 

つまり、脳内の情報を整理する効果があるとのことです。

この技を苫米地先生はラピッドアイロールと呼んでいます。

 

実際にやってみられると分かりますが、瞑想状態の時にも、自然とこの位置に目が行っていませんか?

 

 

私が思うに、瞑想にはこのラピッドアイロールの効果も関係しているような気がいたします。

また、このラピッドアイロール状態のとき、時々、半眼気味になっているときがあります。

私は目が小さいのでなりませんが、もしかしたら目の大きい人であれば、半眼になるかもしれません。

もしかするとお釈迦様はこのラピッドアイロール状態だったので、自然と半眼になっていたのかもしれません。

 

 

 

小池さんによるとお坊さんが「喝!」とか言って、警策(きょうさく)と呼ばれる棒で、ぼんやりしている人をバシーンと叩くものもありますが、あれは要らないそうです。

確かにあれがあると、心が落ち着かない気も致します。

 

法界定印は必要があるか

また、お釈迦様が悟ったと言われるときにしていた手の形。禅定印とか法界定印とか言うそうです。

法界定印、禅定印

これも、これをしなければならないということはないと思います。

私はなんとなく、手の置き場所に困るので、この形をしています。

この手の中の輪っかの中に、自分の自我を置いておく、という意味があるというのを聞いたことがあります。

ただ、自我は存在しませんから、この解釈を採用する必要はないと思います。

 

結跏趺坐なんてしなくて良い

私自身、結跏趺坐ができませんので、それを正当化するわけではないですが、結跏趺坐ができなくても悟れると思います。

結跏趺坐が痛くてできないことを理由に瞑想を諦めるぐらいであれば、椅子に座って瞑想をするほうが進歩的です。

 

小池さんも、スマナサーラ長老も、こだわらなくて良いとおっしゃっております。

 

また、お釈迦様は苦行を捨て、座禅をしたからこそ悟られました。

苦行はいかんのです(笑)

歩きながらでも瞑想はできる? 「止観瞑想」のやり方

止観瞑想とは何か

止観瞑想というものがあります。

 

解釈はたくさんあると思いますので、もしかして間違っているかもしれませんが、私流の解釈でご説明させていただきます。

 

止観瞑想の仕組み

止観というのは、

  1. 思考を止めること
  2. 心を観察すること

この2つから成り立っていると思われます。

 

自我=思考が悟りを遠ざけることはすでに書かせていただきました。

自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

上記では、心の観察についても書いておりますが、もう一度書いておきます。

 

基本的には、思考すること自体を遠ざけます。

思考が苦しみの原因であることは、上記リンク先ですでに書きました。ですからその思考を止めるわけです。

止観のうちの「止」に集中するわけです。

 

しかし、その「止」を乗り越えて、紛れ込んでくる思考があります。

自我を完全に消すことは難しいですから、いくら瞑想を極めていても、思考は紛れ込みます。

 

たとえば、

「私は誰にも愛されていない」などと、ネガティブな自我の声が聞こえてきたとします。

すると、その言葉が心の中に染み込む前に、そのネガティブな思考を発見した時点で「あっ、思考している!」と気づくことに意識を向けること。

これが止観のうちの「感」、つまり観察です。

このように「あっ、思考している!」と気づくことができれば、その声を「止める」ことができます。

 

  1. まず「止」で、思考を止めます。
  2. そしてそこから漏れてくる思考を「観」で、再びせき止める。

このように、2重チェック対策による防波堤をつくることが、止観瞑想です。

 

外出しながら瞑想できるのが強みです

止観瞑想は歩きながらできるのが強み

この止観瞑想はなかなか便利です。

止観瞑想をしながら、外出することができます。

座禅瞑想ではできませんからね。

 

この止観瞑想をしながら外出してみてください。なかなか面白いですよ。

 

止観していると、外部から様々な情報がインプットされていくことに気づきます。

まずは音ですよね。

電車のアナウンスの声や、工事の音、車が走る音など、普段はなかなか気づかない、たくさんの音で溢れています。

 

また、歩いていると

「うわ、あの子かわいいぞ」

「あの人、変な髪型だなあ」

といった、人物評のような思考が湧いてきます。

 

また、体の内部からは

「食べすぎて胃が痛いな」

「昨日、足首ひねったみたいで痛いなあ」

といった情報が流れてきます。

 

さらに、自分のことですね。

「いま俺、変な髪型になってないかな」

「目ヤニ付いていないかな」

そんなようなメッセージまでさまざまな思考が湧いてきます。

 

無意識的に思考していたら気づきませんが、改めて観察してみますと、実にたくさんのことを考えています。

ばかばかしい考えもたくさんありますね(笑)

 

条件反射的に行ってしまう動作にも気づくこと

中でも、「怒らないこと」の著書で有名な僧侶であるアルボムッレ・スマナサーラさんが指摘されるには、例えば、

  • 頭がかゆい
  • 髪の毛が目にかかる

そういったときにも、我々は条件反射的に頭を掻いたり、髪の毛を触ってしまいますが、これが自我の言いなりだとおっしゃいます。

かゆさに気づくこと

 

「かゆい」

という思考が降ってきたら、まずそのことに気づくこと。

 

これは先に述べた、音や他人に対して出てくる気づきと同じように気づけます。

しかし、一般の思考に比べて、これは結構、捕まえるのが難しいです。

 

無意識的にやっていた、髪をかきあげたり、かゆいところを掻いたりする動作ですから。

しかし、その動作に気づくと、そこで、実際に髪をかきあげるか、かゆいところを掻くかという自分の選択ができるようになるわけです。

 

これに自我は驚くわけですね。いままで言いなりに動いていたあなたの体を、またしても反射的に操ろうとしたところで、止観によってストップされてしまうわけですから。

このようにして少しずつ自我のいたずらに事前に気づいていくこと。これが悟りへの道なわけです。

 

自我こそ、あなたにたくさんの迷惑メールを送りつけている本人です

  • かゆい
  • 髪をかきあげる
  • 貧乏ゆすり

こういった条件反射的にやっていたことに気づくこと。

これは小さいことではありますが、これも自我に操られないための気づきという意味では、大きな効果があります。

 

このようなさまざまな思考からの声に気付いていくことで、思考からのコントロールを脱することができます。

思考は常に私たちに何らかの刺激を投げかけてきて、そしてそれらの情報をインプットするよう“半強制的に”働きかけてきます。

 

イメージとしては、たくさんの迷惑メールをどんどん送りつけてきている感じだと思ってください(笑)

自我の声は迷惑メールみたいなもの

そして、従来の我々は、それらの迷惑メールにいちいち反応し、いちいち開封しては「なんてうっとおしいメールなんだ!」とイライラしたり「もっと面白いメールはないのか?」とイライラしたりしていました。

 

そんなメールは開封しなければいいのです。

 

そしてたまに気分を良くするメールを見つけると、それはそれで「幸せなメールが来た!」と喜ぶのです。

しかし、「考えない練習」の著書で知られる僧侶の小池龍之介さんによりますと、たとえ快楽であっても、すべての刺激は、苦しみだとおっしゃいます。

これについても、先ほどの記事に記しております。

自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

 

もう一度簡単に説明させていただきます。

例えばおいしいご飯。これも幸せなのですが、その幸せのビリビリ感が麻薬的に機能し、またおいしいご飯を食べたい!と依存してしまいます。

そして、そのおいしいご飯が食べられなければ、不幸だと感じてしまう。

また、仮に食べられたとしても「次はもっとおいしいものを!」と、欲望はどんどん肥大し、コントロールできなくなっていってしまいます。

 

恋愛も同じです。

彼氏、彼女とラブラブのときは幸せですが、そのビリビリがない会っていないとき、

  • 「彼は今頃何をしているのだろう?」
  • 「もしや浮気でも?」

などと、ラブラブのビリビリの代替として、別の不快なビリビリを発生させてしまいます。

そして彼から幸せをもたらすビリビリを要求するのです。

また、その要求自体も、もっともっと! と、エスカレートしていってしまいます。

ラブラブメールに依存するのも思考のせい

 

ですから、例えば、そのメールが、おいしいご飯へのご招待メールだったり、超エッチなお姉さんと出会えるメールだったりすると、興奮してビリビリが出まくるわけですが、これこそが自我の思うツボです。

そのビリビリをきっかけに、自我に依存させ、そしてまた別の不幸のビリビリまで引っ張ってきたりするわけです。

 

我々はどんどん送られてくるメールを無意識的にいちいち開封して、一喜一憂しています。

ですからまず、メールが届いた時点でそれに気づくことができれば、受け取らないこともできるのです。

これを止観瞑想で止めるわけです。

かゆいと感じたときに、ボリボリと条件反射的に掻いたりしない。

ボリボリ掻いてしまっては、自我からの迷惑メールを何の考えもなしに開封していることと同じだからです。

 

このような観察を、日常生活の中で用いることができるのが止観瞑想です。

 

普段から簡単に悟りに近づいていくことができる、合理的かつ簡単な方法です。

実に簡単に取り組めることが、今回の記事でお分かり頂けたなら幸いです。

ぜひ今から、この止観瞑想にトライしてみてください。