仏教の作法に詳しい方がいます。
私の祖母などがそうです。
浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、それらの作法はこうで、お経はこのように唱えて、仏事はこのように執り行って、墓はどうでこうで、など、多くのルールを知っております。
そして、般若心経という、間違ったお経を毎日唱え、私や私の家族などの幸福を願ってくれています。
般若心経の間違いについては、また別途記します。
祖母の祈りには感謝が絶えませんが、この仏教というものと、ブッダの教えとはかけ離れたものだということを思うたび、ため息を禁じ得ません。
そのことについては下記の記事にも記しました。
>ブッダは信仰心ゼロだった…神様も輪廻転生も、ましてや仏教すら信じないってご存知でしたか
祖母はルールには詳しいですが、悟りの方はさっぱりで、毎日悩み事が絶えず、私によく愚痴をこぼしております。
孫である私としては、祖母が生きているだけでありがたいです。ですから、愚痴を言う元気があることはとてもありがたいことです。
しかし、この仏教というものが、祖母にとっては気休めにさえなっていない事実を感じるたび、やりきれない気持ちになるのは確かです。
祖母は、ブッダが一体、どのような教えを説いていたのかについて、全く知りません。
仏教に詳しい、熱心な仏教徒である祖母でさえ、その開祖たるブッダの教えを理解していないのです。
うーむ。
ブッダの教えを、なるべく分かりやすく書いていきます
かといって、ブッダの教えとは何か、と本で調べたり、ネットで調べたりすると、もう目がくらむような難しさです。
言葉が難しいので、なかなか意味が分かりません。
「求不得苦」とか「諸法無我」といった難しい言葉はすぐには頭に入ってこないでしょう。
そこで私は、このブッダの教えをできるだけ平易な言葉で記してみたいと思います。
祖母のような頭でっかちな迷い人になってしまわないよう、私自身も実践を兼ねて勉強していきたいと思います。
ブッダの教えには、大きく分けて、2つがあります。
それは「縁起」と「四諦(したい)」です。
縁起は世の中の仕組みについて説明したもので、四諦はその世の中をどうやって生き抜くか、を説明したマニュアルだと言えるでしょう。
そしてその四諦は、悟りに至るまでの流れを示しており、悟りに至るまでのトレーニング法を記したものです。
いわば、四諦は悟りガイドブックになります。
今回はその四諦について説明していきたいと思います。
縁起についてはこちらをご覧下さい。
四諦の意味と、その構造について
四諦は悟りの根本原理について説明したマニュアルです。そしてその四諦の考えに従って、実際に悟りに至るためのトレーニング法をブッダは編み出しました。
それが「八正道」です。
ではまずブッダが示した、悟りを開くためのルートをさす四諦について説明していきましょう。
四諦とは「苦」→「集(じゅう)」→「滅」→「道」の流れで進む、4つの真理として説明されています。
まず初めの「苦」ですが、これはすべてが「苦」だという気づきから始まるとブッダは説明します。
ようは人生とは苦しみだということです。
具体的には「生老病死」という4つの苦をさします。
- 生きるという苦しみ
- 老いるという苦しみ
- 病気になる苦しみ
- 死ぬという苦しみ
この四苦が、人生における大きな4つの苦しみだというのです。
そしてさらに
- 愛する人との別れ
- 憎い人との出会い
- 求めるものが手に入らないこと
- 感情への囚われ
この4つの苦しみを加えて「四苦八苦」と言います。
この四苦八苦は、人が生きている以上、切り離せないものだとブッダは気づきました。
そしてこれらの「苦」を感じ取る役割を持っているのが「自我」です。
たとえば
- 生きたい
- 老いたくない
- 死にたくない
- いまの生活を失いたくない
- あの子と付き合いたい
- あんな奴いなくなればいいのに
こういった欲、つまり煩悩というのは、自我がその「苦」を感じ取った瞬間に発生するわけです。
この自我が「苦」を感じ取る作用のことを「集」と言います。
ここで注意したいのは、苦しみというものは、自我がそれを「集」めてくるから、発生するのだとブッダが主張している点です。
「苦」というもの自体が発生していても、それを「集」しなければ、「苦」は発生しないですよ、とブッダは言うのです。
つまり、自分の内部に「苦」があるのではなく、自我(煩悩)の作用によって、わざわざ「苦」を「集」めてくるから苦しいのだ、四苦八苦を感じてしまうのだ、というのがブッダの根本的な考えなのです。
ここがこの考え方の面白いところです。
たしかに人には、四苦八苦があるかもしれないが、そのことに抵抗、つまり「集」をしなければ「苦」は発生しないとブッダは主張するわけです。
死ぬことを怖れない、愛する人を失うことを怖れない、お金を失うことを怖れない。
怖れないというよりは、厳密には「気にしない」という感覚が近いでしょう。
こういう状態であれば、四苦八苦がいくら存在していても、「集」をしていませんから、「苦」しくないという理屈です。
したがって、この「集」をやめれば、煩悩=「苦」はありませんよ、そうブッダは主張しています。
そして自分がこの「集」を行っていることに気づき、そして「集」をやめること。それこそが「滅」です。
この「苦」「集」「滅」の流れこそ、まさに悟りそのものです。悟りのメカニズムを説明書のように記していると言ってもよいでしょう。
そうです。
それは下記の記事でも書いていますが、つまりこの「滅」こそ、悟りを開くための方法なのです。
そしてこの「滅」を行う訓練をするために修行をしましょうというのが、「道」です。
四苦八苦の人生に生きる意味はあるのか
ところでこの「四苦八苦」ですが、生きることが苦しみだと言われると、
「生まれてくるんじゃなかった!」
「生まれてきたことが不幸そのものなのだ!」
などと悲観したりしてしまいがちです。
そんな悲観的なことが果たして本当にブッダの教えなのか?
そう思われるかもしれません。
そして、
「人生が『苦』なのであれば、もう生きている意味はない。自殺しよう」
そうお考えの方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、だからこそ悟りを開くわけです。
自殺などしなくても、「苦」を退けるよう悟りを開くことで、心の平穏が訪れるのです。
悟りの道の幸福については下記の記事が詳しいです。
また、人生は「四苦八苦」だと主張するブッダに対して、
「この世には楽しいことだっていっぱいある。ブッダは何でもかんでも悲観的に考えすぎだ」と、そういった反論があるかもしれません。
これについては、快楽すらも苦しみでしかないことによって説明がつきます。
それもこちらで説明をさせていただきました。
快楽というのは、それをたしなんでいるうちは良いのですが、依存してしまうとさらに強い快楽を、と求めてしまう習性があります。
楽しいことのあとには、楽しくないことも待っています。
そのジェットコースターのような人生を生きるのも一つのあり方です。
一方で、そういう人生にはこりごり、もう疲れたというあなたは、私と一緒に悟りの道を進みましょう。
そのほかにも、
「生まれてきたことが苦しみだとは、何たる親不孝者! 失礼なことだ」
といった反論もあるでしょう。
生まれてきたことは苦しみだとしても、だからといってご縁によっていただいた人生を否定するわけではありません。
悟りの道には、親も子も関係ありません。ひたすら修行あるのみです。
まとめ
今回はブッダの教えの根幹である四諦について話していきました。
もうこの教えだけで、ブッダの教えのすべてが詰まっているといっても過言ではありません。
悟るために必要な情報はもう、この四諦の中にエッセンスとして詰まっています。
この四諦の道すじをたどり、どうぞ私とともに悟りの道を目ざしましょう。