ブッダの教えは宗教ではない

ブッダの教えは宗教ではない

仏教というと「成仏することによって、死後に極楽浄土の世界に行ける」というような輪廻転生の世界観が語られますよね。

困った時や、願い事を叶えたい時にも「神様、仏様」と、神様の力を借りようとします。

仏教に限らず、キリスト教やイスラム教など、宗教というものはだいたいそういった教義を持っています。

 

しかし、ブッダは、そういった死後の世界については言及していません。

「死んだことがないから分からない」

「考えても分からないことを考えるよりも、いまをしっかり生きよう」

このように言っているそうです。

 

仏教思想というものは、ブッダの死後、弟子達によって創作されたものなのです。

 

仏教の教えは嘘八百です

現在は仏教という体系化された宗教がありますが、ブッダがその教えを広めているときには、現代のような体系はなく、いわゆる「信じるものは救われる」、「神様に助けを乞う」というようなものではありませんでした。

 

宗教では、人知を超えた力に救いを求めますよね。仏やイエス・キリスト、アラーなどです。しかし、ブッダの教えにはそんなものはありません。

 

著書「怒らないこと」で有名なスリランカの僧侶、アルボムッレ・スマナサーラ老師もおっしゃっています。

この動画の開始1分過ぎをご覧下さい。

長老「いまは苦しくても、すぐ明るい将来待ってるんだぞとか、アホでしょ。ありえないでしょ」

「頑張れば救われますよ、とか。救われませんよ」

「残念ですけど、私は嘘は言えません。私は現実を教えてあげて、しぶとい人間にしてあげたいんです」

「頑張ったんだけど、全く結果がないんだと。だからしぶとい人間だったら気にしないでしょ」

「苦労したら必ず、幸福が待ち構えているんだよとか、嘘でしょあんなの」

「たまたま誰かが苦労して成功するんですけど、みんながそうじゃないでしょ」

「しぶとくなるしかないんです」

 

なんだこのジジイ、夢も希望もなくなることを言うなあ。と、ショックを受けられるかもしれません。

しかし、ブッダの教えでは、こういったいわゆる現世的な成功は苦しみの元なわけです。

成功すれば、いずれそれを失う恐怖が訪れる。苦しみからは逃れられない、そう考えるわけです。

 

こう解釈すると、ブッダの教えはいかにも厭世的なものに感じてしまいます。

ですから弟子達は、このとっつきにくさを解消するために、さまざまな創作をしたのでしょう。完全に余計なお世話です。

 

なぜなら、ブッダのいう悟りの世界にも、ちゃんと幸福はあるからです。

それがいわゆる一般的な成功とは無縁のものだとそう考えてもらえれば良いかと思います。

悟りの効用についてはこちらを参照下さい。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

 

さらにスマナサーラ長老は言います。動画の15分ごろです。

「迷信と神話でできている宗教とは、何の縁もない」

「ブッダは科学者も腰が抜けるほどの科学者なんです」

つまり、ブッダの教えは科学的なものであり、いわゆる信心の力でどうにかするものではないとおっしゃっています。

 

また、「考えない練習」などの著書で知られる住職の小池龍之介さんも「信仰心はありません」とおっしゃっています。

 

そうなんですよね。ブッダの教えを厳密に解釈すれば、宗教とは関係がないことが分かりますから、本当の意味でブッダの考えを忠実に考え、実践している方は、ブッダの教えのことを仏教とは言わなかったりします。

小池さんは、柔道などに習って「仏道」とおっしゃいます。

熱心な仏教徒として知られる評論家の宮崎哲弥さんも自身は、仏教徒というよりは、単にBUDDHIST(ブディスト)を訳した”仏教者”として考えているという風におっしゃっています。

 

幽霊が見えるなら、まず心療内科に行くべきです

幽霊が見えるなら心療内科へ

私も、宗教は全く信じておりません。法事などでは、お坊さんが仏壇に向かって念仏を唱えてくれますが、馬鹿馬鹿しいと思っています。

魂というものはあるかもしれませんが、分かり得ないものですから、そこにこだわることはありません。

仮に魂があったとしても、サンスクリット語を唱えるお経には何の意味もないと思います。

日本語に直したなら、アファメーション効果ぐらいは働くと思いますが。

 

墓石にも意味はないと思います。あれは死んだ者ではなく、生きている者が、自身の心を安らげるためにあるものです。

私も里帰りには祖父の墓には行きます。

ですが、仮に行かなかったからといって、ばちが当たったりするとは思いません。よく、ばちが当たるなどと言いますが、私を愛してくれた祖父は、私がまっすぐに生きていれば、墓石に「バカ」と書こうとばちを与えるとは思いません。

 

「悪霊が…」「幽霊が…」などと言う人もいますが「今すぐここで、霊を見せて下さい。私に呪いをかけてみてください」と言いたくなります。

霊がいたとしても、個人レベルに対してわざわざ攻撃を仕掛けてくるようなことはないでしょう。その場に邪気が溜まる、とかなら分かりますが。

また、悪い霊ばかりではないはずで、良い霊もいっぱいいるでしょうから、幽霊のことでどうこう言うのは馬鹿げた話です。

 

寝仏、寝釈迦仏はマジだった

ブッダは亡くなる際に「死後(死者)のことにこだわるな」と言っています。開祖がこう言っているのです。極楽浄土があるとも、死後の世界があるとも言っていません。

 

ブッダの教えには「毒矢の教え(たとえ)」というものがあります。

人が毒矢に刺されたとき、その毒がどういう種類の毒なのか、犯人が誰なのか、一体なんのために毒矢が放たれたのか、そんなことを考えていると、死んでしまいます。

そんなことを考える前に、さっさと治療をしなさい。

これがブッダの教えです。

毒矢の喩え

 

死後の世界がどうなっているのか、自分の未来がどうなっているのか、そんなことに悩んで暮らす暇があるなら、毎日をちゃんと生きなさいよ、とそう言っているのです。

極楽浄土を夢想するのは時間の無駄だと言っており、神に助けを求めるぐらいなら、いま自分にできることをしましょうと言っているわけです。

 

実に論理的な回答ですよね。

 

ですが、一般的には、今が苦しくても極楽浄土が待っている、とか、死ねば仏様になれるとか、そういった思想が仏教だと思われています。

しかし、ブッダの本当の教えというのは、生きているうちに、仏になる(=悟りを開く)ことを目ざしましょうという教えなのです。

 

せっかくのブッダが悟りによる幸福の世界観を伝えたのに、それを後世の人間が死後の世界だとか、祈りの力とか、ふざけた論理を持ち出したことで、めちゃくちゃになってしまいました。

まあ、戦国時代などはそういった論理を持ち出さなければならないほど、それだけ生きにくい時代でもあったのでしょう。

 

また、ブッダも悟った直後に「この悟りの境地を広めるのは無理だ、やめやめ」と考えたり、布教活動もかなり適当で、寝てばっかりしていたそうなので、無理もないかもしれませんね。

このへんの雑さも、ブッダの面白いというか愛らしいところです。

寝釈迦像

(寝転がっている釈迦の仏像も多いですもんね)

 

悟りの道は、自動車教習所のようなもの

みんな、仏教と言えば「宗教」「信仰」と考えてしまいますし、とくに「私はブッダを信じている」というと敬虔な教徒などと思われたり、怪しげな新興宗教に入ったのではないか? と思われがちです。

 

私も変なオカルトにハマっている人と誤解されることがあり面倒ですが、私自身、信仰心もなく、布教したいとも思っていません。

 

ですから「悟り」というと、いかにもスピリチュアルで怪しい雰囲気がしてしまいますが、どうかそういう解釈をせずに、悟りを開くことを自動車免許を取るようなものだと考えてもらった方が、まだ近いような気さえします。

 

ブッダの教えというのは、超人であったり、聖人であったり、そんな特別な存在になるものではありません。

むしろ、そういう存在になりたいということ自体が欲ですから、そういう飾り付けをすべて排除してしまう先に、悟りがあるとしています。

 

そしてまた「悟り」は死後の生活を保障するものでもありません。

いまこの現代において「生きやすいライフスタイルの提案」こそが、ブッダのいう悟りなのです。

まあ、悟りが「ライフスタイルの提案」というのは、あまりにも軽妙過ぎる表現かもしれませんが(笑)

 

それぐらいに考えても良いと思います。


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