自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

左脳の暴走を止めることで悟りを開ける

悟りに至るためには、エゴ(自我)が暴走し、思考が止まらなくなってしまう状態、つまり左脳の暴走を止めなければなりません。

左脳の暴走を止めることで悟りを開ける

左脳が停止している状態、つまり思考停止状態にあるとき、右脳が活性化を始めて、悟りに至ります。

それについてはこちらの記事をご参照下さい。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

 

しかしなぜ我々は思考してしまうのでしょうか。

そして思考しているときの脳のメカニズムはどのようになっているのでしょうか。

それについて今回は学んでいきたいと思います。

 

小池龍之介さんの本「『我』を張らない人づきあい」から学ぶ

今回は「考えない練習」の著書で知られている小池龍之介さんの本「『我』を張らない人づきあい」で学んでいきたいと思います。

 

この本は、左脳(思考)がいかに我々を阻害し、悟りを遠ざけているか、科学的に語ってくれています。

スピリチュアルパワーで、宇宙の神様が〜とか、エンジェルが〜とか、インナーチャイルドが〜というような、いかにもスピリチュアルなワードが苦手な方にお勧めしたいですね。

 

自我とは何か

小池龍之介さんは「本当は自我など無い」とおっしゃっています。

これはスリランカの僧侶であり「怒らないこと」の著書で知られるアルボムッレ・スマナサーラ長老もおっしゃっていますし、スピリチュアル系の方なら誰もがおっしゃっていますね。

「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」の著者であるエックハルト・トールさんもおっしゃっています。

 

つまり、悟りの世界において「自我がない」ということは、悟っている皆さんが感じておられることのようです。

ではこの自我とはそもそも何なのでしょうか。

 

確かに、人間には脳と呼ばれるものしかなく、心というものは厳密にはありません。

脳には、神経細胞に流れる電気的な刺激しか存在していないからです。

そしてこの脳から送られる電気刺激こそ、心の正体です。

自我は脳に流れる電気刺激に過ぎない

我々はこの電気刺激によって流れる電流によって、快楽を感じさせられたり、悲しみを感じさせられたり、怒りを感じさせられたりしているわけです。

 

 

そして小池さんはおっしゃいます。《》内が引用部分です。

《こう見てまいりますと、「刺激を自発的に感じている自分」などはどこにもおらず、むしろ刺激を“感じさせられ”、時として「快」と錯覚させられているだけです》

 

そうなんですよね。よく考えますと、例えば心の痛み、不幸な気持ちというのは、自分で発しているわけではなく、心が勝手にその痛みを運んできて、無理やり私に押し付けてきているわけです。

そこに私の選択はないわけです。

剛田ニズム宣言

(「お前のものは俺のもの」まさにジャイアンのような剛田ニズムに我々はさらされているわけです)

 

私自身も、いまは選択できるようになってきてはいますが、もともとはジャイアンよろしく無理やりその刺激を受けさせられておりましたし、いまでも例外ではありません。

 

ちなみに、刺激を選択するということがどういうものかと言いますと、、

まずは心の痛みが降ってきたときに、それを感受する前に、「痛みを感じさせてやろう」と痛みが降ってきていることに気づき、その心の痛みの雨を避けるということです。

 

感情が自分の心を捉えようとしていることに気づけば、それが心に到達する前に、あるいは心に到達してしまって一瞬、ウッ! という刺激を受けたにせよ、それを避けることができます。

この繰り返しにより、あらゆる刺激をナチュラルに避けられるようになることが悟りへの道だと私は考えています。

 

自我は「生きている実感」が欲しい

我々はなぜ、そのような刺激を求めてしまうのでしょうか。

 

我々がまず求めるのは、食欲、性欲、睡眠欲という3大欲求です。

これらは生きるために欠かせませんので、その感覚自体は受け入れるべきものです。

しかし、自我の作用によって、無理やりその感覚を押し付けられている可能性について検討してみましょう。

 

食欲で言いますと、基本的には一汁三菜を食べることができましたら、それで満足できるものです。

自我は一汁三菜では満足しない

あまりに食べ過ぎますと、胃腸に負担がかかりますし、苦しくなって気分が悪くなってしまったりします。

もしそうならないとすれば、心がすでに麻痺しているかもしれません。

その結果、ブクブクと太ってしまいます。

 

 

太ってしまうということ自体、食欲が抑えられないという心の病があるかもしれません。

太っているぐらいなら良いですが、過食症とまでなると大変です。

 

食べる、ということには刺激があります。

甘さ、辛さ、そして喉を通って胃に収まる時の満足感。

これがビリビリと刺激になり、幸福感を得るのです。

 

しかし、胸焼けするまで、あるいは太ってしまうまで食べたくなってしまうのは、それは自我が何としてもビリビリと刺激を感じたいからではないでしょうか。

 

我々(というか自我)はビリビリと刺激を感じているときに「生きている」という実感を得ることができるようです。

従って、強いビリビリ感があればあるほど「生きている」という感覚を持てるのです。

 

それは自我にとってはとても重要なことらしいです。

私、あるいはあなたの本体がどうなろうと、どうでも良くて、ただ自我自身が「生きている実感」を求めたいがために、私やあなたの体を乗っ取って、太ってしまうまで食事をさせられているのです。

 

そしてここで重要なのは、自我にとっては私やあなたの体そのもののことはどうでも良いと思っているということです。

そうですよね。

でなければ、ブクブクと太ってしまったりするわけがありませんから。

 

あなたがフラレてしまって悲しいのも、あなた本体がダメージを受けているわけではなくて、自我が「私は悲しい!」という刺激をビリビリと出しているだけのことです。

 

フラれてしまった悲しさから、元彼に1日に10通もLINEを一方的に送ったりする人もいるそうですが(私が聞いた話では、200通という方もいらっしゃいました)、こんなことをしても元彼は余計に離れていくだけです。

 

たとえ、状況が悪くなることであっても、自我はあなたの体を乗っ取って、仕掛けてくるわけです。

自我にとって、あなたのことはどうでも良いのです。

 

とにかく自我は

  • 「自分はここにいるんだ!」
  • 「自分を見てほしい」
  • 「自分を感じてほしい」

と訴えかけてきます。

 

そのためのなりふり構わない努力によって、私たち本体は振り回されて、そしてさもそれらの自我の行いを、自分本体が感じていることであるかのように、錯覚させられてしまうのです。

自我がなりふり構わずコントロールしようとしてくる

小池龍之介は先の本でこのように書かれています。

《こんな刺激的な情報を“見ている自分は確かにここにいる”とだまされるのです》

 

そしてこの自我のビリビリの刺激は、一度その刺激を感じるともうそれには慣れてしまいますから、「次はもっと強烈な刺激を」と求めてしまいます。

 

食べ物だったら「もっともっと美味しいものが食べたい」となります。

賞賛を浴びたいのであれば「Facebookでみんなが『いいね!』をしてくれているけど、もっともっと『いいね!』が欲しい。もっともっと賞賛を浴びたい」

と、エスカレートしていき、止まらなくなってしまうのです。

次から次に、より強い刺激を求めていくようになってしまうのです。

まさに麻薬ですね。

 

何の得にもならない自我の刺激からは遠ざかっていくことが、幸福への一番の近道だということがお分かりいただけるかと思います。

 

なぜ「自我」というメカニズムが存在するのか

同著において小池さんは、そもそもなぜ自我というものがあるのか、という疑問に対し

《人間に組み込まれたプログラムとは、すこぶる大雑把に、こうやってエスカレートしていくようにしておけば、何人かはそのために不幸になり破滅してしまうかもしれませんが、何人かは暴れまわった挙句、不特定多数との異性とも生殖行為をして子孫が増えていくであろうよ、といういい加減なものと邪推することもできるかもしれません》

とお答えになっています。

 

要するに、動物的な本能、つまり弱肉強食の原理こそ、自我が発生する要因だと述べておられます。

エゴの本能は弱肉強食

自我が暴走した社会では

  1. 自我の刺激が運良く良い方に左右した人間
  2. 自我の刺激が運良くそこそこ良い方に働いている人間
  3. 自我の働きで、良くも悪くもない人間
  4. 自我の働きが悪い方に作用している人間
  5. 自我の働きのために、非常に苦しんでいる人間

 

と、良いものから悪いものまで5パターンが出てきますが「このうち1〜3までは生き残って、あとの4、5は淘汰されたらよいのだよ」というのが自我のプログラムではないか、と小池さんはおっしゃっているのです。

 

現代は「新自由主義(ネオリベラリズム)」が蔓延しているといわれております。

お金持ちはどんどん儲かっていき、ハッピーな人はどんどんハッピーになれる一方で、貧乏であったり、苦しんでいても社会保障は最小限という二極化が進んでいるのは、この新自由主義の影響です。

新自由主義こそ、この自我の原理そのものと言えるでしょう。

 

しかし、このように弱者が切り捨てられる社会が果たして正しいのでしょうか?

自我のプログラムからかけ離れた社会こそが、あるべき姿だと思えてなりません。

 

無我の境地とは

それでは、悟った人がおっしゃる無我とは一体なんでしょうか。

自我が邪魔者、ダメなものだということは分かって参りましたが、では、自我が無い状態では、私たちには何が残っているのでしょうか。

いわゆる無我の境地とは、どういったものでしょうか。

 

これは

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

の項でも書きましたが、脳科学者のジル・ボルト・テーラー博士が、脳卒中になって左脳(自我、エゴ、思考)の機能がストップし、右脳だけの状態になったときの感覚にあると思います。

テーラー博士はこのように述べています。

「左脳のささやきが完全に途絶えました」

「まるで誰かがテレビのリモコンを取り、ミュートボタンを押したかのように全くの静寂になりました」

「すぐに周囲の大きなエネルギーに魅了されました」

「全てのエネルギーと一体になり、それは素晴らしいものでした」

「私はこの空間を親しみを込め『ララランド(陶酔の世界)』と呼んでいます」

「外の世界と自分をつなぐ脳のしゃべり声から、完全に切り離されているのです」

「この空間の中では仕事に関わるストレスが全て消えました」

「平安で満ち足りた気分になりました」

「想像して下さい。37年間の感情の重荷から解放されるのがどんなものか!」

「ああ! なんという幸福。幸福。とても素敵でした」

 

これこそが悟りの境地だと思われます。

 

しかし「この境地になりたい」などと強く願いますと、それはまた自我の思うつぼです。

そんな余計なことは考えず、ただ思考を止めることに集中することが肝要かと思われます。

 

小池さんは悟りの状態について何とおっしゃっているでしょうか。

 

《それらのノイズを消して落ち着いた余裕を持ち、佇んでいられましたら、初めて「良い子のフリ」ではなくて、本当の慈(やさしさ)を相手に向けることができるでしょう。すなわち純度の高い、純粋な人付き合いが、“生まれて初めて”可能になり、しかもそうすることが、ほかならぬ自分自身にとって深い充足感をもたらしてくれることが、実践してみれば腑に落ちるでしょう》

 

《そしてその蜃気楼を取り除いてみさえすれば、自由自在になるばかりか、すべてがさらさらとなめらかに流れてゆくのですから、この邪悪なプログラムから脱出することはいかに有意義であり、人類に組み込まれた、ひょっとしたらDNAによる支配命令と呼んでよいかもしれないものに対して、革命を起こすことにものなると申しても過言ではないでしょう》

 

どうですか?

悟りへの道へ進みたくなりませんか(笑)

 

悟りの境地には簡単には達することができないと思いますが、自我に振り回され、苦しめられる生活はもうまっぴらです。

 

自我から離れ、平穏に暮らしたい。

そういった思いがあるなら、私とともに、自我から離れ、無我の境地に入る訓練をしていきましょう。