結跏趺坐のやり方

瞑想の一種である座禅。

これには結跏趺坐(けっかふざ)、蓮華座(れんげざ)という、座禅における基本形があります。

上の画像をご参照ください。これがその結跏趺坐、蓮華座です。どちらも同じ意味です。

私はなぜこんな座禅の組み方をするのか不思議でした。

 

だって、痛いですもん(笑)

 

仏像をみても、みんながみんなこの足の組み方をしていますから、このやり方には意味があるんでしょう。

では一体どういう意味があるのでしょうか。

 

足が痛くなるだけの結跏趺坐に意味はあるのか

結跏趺坐をやってみると、めちゃくちゃ痛いです。そしてできない。さらには血流が止まる。

結跏趺坐で足が痛い

こんなこと、どうしてしなくてはならないのかと不思議でした。

 

しかし著書「考えない練習」で知られている小池龍之介さんが、この結跏趺坐の意味を答えておられました。

その理由は単純明快です。

 

長時間座っていても、足が痛くならないから。

 

もちろん、関節が柔らかくなって、慣れてからのことですが、慣れると、長時間座っていても足が痛くならないそうです。

 

たとえば正座。これはすぐに痛くなりますよね。

椅子に座っていても、すぐに痛くなります。

しかし、結跏趺坐は痛くならないのだそうです。

6、7時間座っていても平気でいられるようです。

 

ちなみに、私は結跏趺坐ができませんので(笑)、実践していませんが、お釈迦様が悟られた時にもこの結跏趺坐で座しておられ、小池さんも実際にされております。

また、インドの昔の仏教者で非常に高名な龍樹(ナーガールジュナ)さんがまとめた「大智度論」7巻には次のようなやり取りがあります。

 

「多くの坐法有り、仏、何を以ての故に、唯だ結跏趺坐のみを用いるや」

答えて曰く、「諸の坐法中、結跏趺坐、最も安穏にして、疲極せず」

 

これを現代風に訳しますと、

「いろんな座禅があんのに、悟っている人はなんで結跏趺坐しかせえへんのや?」

答えて曰く、「いろんな座禅の中で、結跏趺坐が一番楽で、疲れへんのや」

 

とのことです。

従って、結跏趺坐は疲れないというこの理屈は信ぴょう性が高いと思われます。

私自身も関節を柔らかくし、実験してみたいとは思っております。

 

 

ちなみに、結跏趺坐の中でも意味のないものがあります。

結跏趺坐のうち右足を上にするのが「吉祥坐」、左足を上にするのが「降魔坐」などと言うそうですが、これはどうでもよいと思います。

 

もしかしたら、どちらかを上にすればより右脳を活性化し、左脳を抑制するというような作用があるのかもしれませんが、そこにこだわって自我がでしゃばってくるよりも、思考を止めることに集中した方が良さそうです。

お釈迦様もおそらく「どっちでもいい」とおっしゃると思います。

あまり気にせずやりましょう。

 

半眼になる意味や、効果があるのか

半眼。座禅

また「半目を開ける」ということを勧める本もあります。

お釈迦様が半目、かっこ良く言いますと「半眼」だったからだそうです。

 

これはどういうことなんでしょうね。

「半眼になって、鼻先をみる」というのが基本的なポーズらしいです。

これをやってみると、なるほど、視線を鼻先に集中させるため、思考が生まれにくいですね。

また、眠ってしまうことがなくなるかもしれません。

 

 

 

 

私はまばたきが気になるので、目は閉じます。小池さんも目を閉じることを勧めておられます。どちらでもよろしいのではないでしょうか。

 

私が思うに、お釈迦様が半眼だったのは、半眼になったまま寝ている人がいるように、自然にそうなっただけのような気もいたします。

 

ちなみに、寝ているとき、人の目は動いているそうです。

脳機能学者の苫米地英人先生の著書によると、記憶を司る「海馬」という脳の神経と、目の神経はつながっているそうです。

人間は寝ている間に、起きているときの記憶を整理するそうで、寝ている間に海馬がピコピコと働いているそうです。

そのときに、目の神経も釣られてピコピコと動いてしまうそうです。

 

苫米地先生によると、寝ている時と同じように、目を閉じて、眼球を上の方に向けると、寝ている時に海馬が情報処理を行っているのと同じような効果が出るそうです。

 

つまり、脳内の情報を整理する効果があるとのことです。

この技を苫米地先生はラピッドアイロールと呼んでいます。

 

実際にやってみられると分かりますが、瞑想状態の時にも、自然とこの位置に目が行っていませんか?

 

 

私が思うに、瞑想にはこのラピッドアイロールの効果も関係しているような気がいたします。

また、このラピッドアイロール状態のとき、時々、半眼気味になっているときがあります。

私は目が小さいのでなりませんが、もしかしたら目の大きい人であれば、半眼になるかもしれません。

もしかするとお釈迦様はこのラピッドアイロール状態だったので、自然と半眼になっていたのかもしれません。

 

 

 

小池さんによるとお坊さんが「喝!」とか言って、警策(きょうさく)と呼ばれる棒で、ぼんやりしている人をバシーンと叩くものもありますが、あれは要らないそうです。

確かにあれがあると、心が落ち着かない気も致します。

 

法界定印は必要があるか

また、お釈迦様が悟ったと言われるときにしていた手の形。禅定印とか法界定印とか言うそうです。

法界定印、禅定印

これも、これをしなければならないということはないと思います。

私はなんとなく、手の置き場所に困るので、この形をしています。

この手の中の輪っかの中に、自分の自我を置いておく、という意味があるというのを聞いたことがあります。

ただ、自我は存在しませんから、この解釈を採用する必要はないと思います。

 

結跏趺坐なんてしなくて良い

私自身、結跏趺坐ができませんので、それを正当化するわけではないですが、結跏趺坐ができなくても悟れると思います。

結跏趺坐が痛くてできないことを理由に瞑想を諦めるぐらいであれば、椅子に座って瞑想をするほうが進歩的です。

 

小池さんも、スマナサーラ長老も、こだわらなくて良いとおっしゃっております。

 

また、お釈迦様は苦行を捨て、座禅をしたからこそ悟られました。

苦行はいかんのです(笑)


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