止観瞑想というものがあります。
解釈はたくさんあると思いますので、もしかして間違っているかもしれませんが、私流の解釈でご説明させていただきます。
止観瞑想の仕組み
止観というのは、
- 思考を止めること
- 心を観察すること
この2つから成り立っていると思われます。
自我=思考が悟りを遠ざけることはすでに書かせていただきました。
上記では、心の観察についても書いておりますが、もう一度書いておきます。
基本的には、思考すること自体を遠ざけます。
思考が苦しみの原因であることは、上記リンク先ですでに書きました。ですからその思考を止めるわけです。
止観のうちの「止」に集中するわけです。
しかし、その「止」を乗り越えて、紛れ込んでくる思考があります。
自我を完全に消すことは難しいですから、いくら瞑想を極めていても、思考は紛れ込みます。
たとえば、
「私は誰にも愛されていない」などと、ネガティブな自我の声が聞こえてきたとします。
すると、その言葉が心の中に染み込む前に、そのネガティブな思考を発見した時点で「あっ、思考している!」と気づくことに意識を向けること。
これが止観のうちの「感」、つまり観察です。
このように「あっ、思考している!」と気づくことができれば、その声を「止める」ことができます。
- まず「止」で、思考を止めます。
- そしてそこから漏れてくる思考を「観」で、再びせき止める。
このように、2重チェック対策による防波堤をつくることが、止観瞑想です。
外出しながら瞑想できるのが強みです
この止観瞑想はなかなか便利です。
止観瞑想をしながら、外出することができます。
座禅瞑想ではできませんからね。
この止観瞑想をしながら外出してみてください。なかなか面白いですよ。
止観していると、外部から様々な情報がインプットされていくことに気づきます。
まずは音ですよね。
電車のアナウンスの声や、工事の音、車が走る音など、普段はなかなか気づかない、たくさんの音で溢れています。
また、歩いていると
「うわ、あの子かわいいぞ」
「あの人、変な髪型だなあ」
といった、人物評のような思考が湧いてきます。
また、体の内部からは
「食べすぎて胃が痛いな」
「昨日、足首ひねったみたいで痛いなあ」
といった情報が流れてきます。
さらに、自分のことですね。
「いま俺、変な髪型になってないかな」
「目ヤニ付いていないかな」
そんなようなメッセージまでさまざまな思考が湧いてきます。
無意識的に思考していたら気づきませんが、改めて観察してみますと、実にたくさんのことを考えています。
ばかばかしい考えもたくさんありますね(笑)
条件反射的に行ってしまう動作にも気づくこと
中でも、「怒らないこと」の著書で有名な僧侶であるアルボムッレ・スマナサーラさんが指摘されるには、例えば、
- 頭がかゆい
- 髪の毛が目にかかる
そういったときにも、我々は条件反射的に頭を掻いたり、髪の毛を触ってしまいますが、これが自我の言いなりだとおっしゃいます。
「かゆい」
という思考が降ってきたら、まずそのことに気づくこと。
これは先に述べた、音や他人に対して出てくる気づきと同じように気づけます。
しかし、一般の思考に比べて、これは結構、捕まえるのが難しいです。
無意識的にやっていた、髪をかきあげたり、かゆいところを掻いたりする動作ですから。
しかし、その動作に気づくと、そこで、実際に髪をかきあげるか、かゆいところを掻くかという自分の選択ができるようになるわけです。
これに自我は驚くわけですね。いままで言いなりに動いていたあなたの体を、またしても反射的に操ろうとしたところで、止観によってストップされてしまうわけですから。
このようにして少しずつ自我のいたずらに事前に気づいていくこと。これが悟りへの道なわけです。
自我こそ、あなたにたくさんの迷惑メールを送りつけている本人です
- かゆい
- 髪をかきあげる
- 貧乏ゆすり
こういった条件反射的にやっていたことに気づくこと。
これは小さいことではありますが、これも自我に操られないための気づきという意味では、大きな効果があります。
このようなさまざまな思考からの声に気付いていくことで、思考からのコントロールを脱することができます。
思考は常に私たちに何らかの刺激を投げかけてきて、そしてそれらの情報をインプットするよう“半強制的に”働きかけてきます。
イメージとしては、たくさんの迷惑メールをどんどん送りつけてきている感じだと思ってください(笑)
そして、従来の我々は、それらの迷惑メールにいちいち反応し、いちいち開封しては「なんてうっとおしいメールなんだ!」とイライラしたり「もっと面白いメールはないのか?」とイライラしたりしていました。
そんなメールは開封しなければいいのです。
そしてたまに気分を良くするメールを見つけると、それはそれで「幸せなメールが来た!」と喜ぶのです。
しかし、「考えない練習」の著書で知られる僧侶の小池龍之介さんによりますと、たとえ快楽であっても、すべての刺激は、苦しみだとおっしゃいます。
これについても、先ほどの記事に記しております。
もう一度簡単に説明させていただきます。
例えばおいしいご飯。これも幸せなのですが、その幸せのビリビリ感が麻薬的に機能し、またおいしいご飯を食べたい!と依存してしまいます。
そして、そのおいしいご飯が食べられなければ、不幸だと感じてしまう。
また、仮に食べられたとしても「次はもっとおいしいものを!」と、欲望はどんどん肥大し、コントロールできなくなっていってしまいます。
恋愛も同じです。
彼氏、彼女とラブラブのときは幸せですが、そのビリビリがない会っていないとき、
- 「彼は今頃何をしているのだろう?」
- 「もしや浮気でも?」
などと、ラブラブのビリビリの代替として、別の不快なビリビリを発生させてしまいます。
そして彼から幸せをもたらすビリビリを要求するのです。
また、その要求自体も、もっともっと! と、エスカレートしていってしまいます。
ですから、例えば、そのメールが、おいしいご飯へのご招待メールだったり、超エッチなお姉さんと出会えるメールだったりすると、興奮してビリビリが出まくるわけですが、これこそが自我の思うツボです。
そのビリビリをきっかけに、自我に依存させ、そしてまた別の不幸のビリビリまで引っ張ってきたりするわけです。
我々はどんどん送られてくるメールを無意識的にいちいち開封して、一喜一憂しています。
ですからまず、メールが届いた時点でそれに気づくことができれば、受け取らないこともできるのです。
これを止観瞑想で止めるわけです。
かゆいと感じたときに、ボリボリと条件反射的に掻いたりしない。
ボリボリ掻いてしまっては、自我からの迷惑メールを何の考えもなしに開封していることと同じだからです。
このような観察を、日常生活の中で用いることができるのが止観瞑想です。
普段から簡単に悟りに近づいていくことができる、合理的かつ簡単な方法です。
実に簡単に取り組めることが、今回の記事でお分かり頂けたなら幸いです。
ぜひ今から、この止観瞑想にトライしてみてください。