「四諦」とは何か…仏教とブッダの教えの違いとは?

仏教とブッダの教えは異なる

仏教の作法に詳しい方がいます。

私の祖母などがそうです。

浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、それらの作法はこうで、お経はこのように唱えて、仏事はこのように執り行って、墓はどうでこうで、など、多くのルールを知っております。

 

そして、般若心経という、間違ったお経を毎日唱え、私や私の家族などの幸福を願ってくれています。

般若心経の間違いについては、また別途記します。

祖母の祈りには感謝が絶えませんが、この仏教というものと、ブッダの教えとはかけ離れたものだということを思うたび、ため息を禁じ得ません。

そのことについては下記の記事にも記しました。

ブッダは信仰心ゼロだった…神様も輪廻転生も、ましてや仏教すら信じないってご存知でしたか

 

祖母はルールには詳しいですが、悟りの方はさっぱりで、毎日悩み事が絶えず、私によく愚痴をこぼしております。

孫である私としては、祖母が生きているだけでありがたいです。ですから、愚痴を言う元気があることはとてもありがたいことです。

しかし、この仏教というものが、祖母にとっては気休めにさえなっていない事実を感じるたび、やりきれない気持ちになるのは確かです。

祖母は、ブッダが一体、どのような教えを説いていたのかについて、全く知りません。

 

仏教に詳しい、熱心な仏教徒である祖母でさえ、その開祖たるブッダの教えを理解していないのです。

うーむ。

 

ブッダの教えを、なるべく分かりやすく書いていきます

かといって、ブッダの教えとは何か、と本で調べたり、ネットで調べたりすると、もう目がくらむような難しさです。

言葉が難しいので、なかなか意味が分かりません。

「求不得苦」とか「諸法無我」といった難しい言葉はすぐには頭に入ってこないでしょう。

 

そこで私は、このブッダの教えをできるだけ平易な言葉で記してみたいと思います。

祖母のような頭でっかちな迷い人になってしまわないよう、私自身も実践を兼ねて勉強していきたいと思います。

 

 

ブッダの教えには、大きく分けて、2つがあります。

それは「縁起」と「四諦(したい)」です。

 

縁起は世の中の仕組みについて説明したもので、四諦はその世の中をどうやって生き抜くか、を説明したマニュアルだと言えるでしょう。

 

そしてその四諦は、悟りに至るまでの流れを示しており、悟りに至るまでのトレーニング法を記したものです。

いわば、四諦は悟りガイドブックになります。

今回はその四諦について説明していきたいと思います。

縁起についてはこちらをご覧下さい。

縁起、そして無常とは何か? ブッダが考える宇宙の仕組み

 

四諦の意味と、その構造について

悟りに至るための四諦

四諦は悟りの根本原理について説明したマニュアルです。そしてその四諦の考えに従って、実際に悟りに至るためのトレーニング法をブッダは編み出しました。

それが「八正道」です。

 

ではまずブッダが示した、悟りを開くためのルートをさす四諦について説明していきましょう。

 

四諦とは「苦」→「集(じゅう)」→「滅」→「道」の流れで進む、4つの真理として説明されています。

 

まず初めの「苦」ですが、これはすべてが「苦」だという気づきから始まるとブッダは説明します。

ようは人生とは苦しみだということです。

具体的には「生老病死」という4つの苦をさします。

  • 生きるという苦しみ
  • 老いるという苦しみ
  • 病気になる苦しみ
  • 死ぬという苦しみ

この四苦が、人生における大きな4つの苦しみだというのです。

 

そしてさらに

  • 愛する人との別れ
  • 憎い人との出会い
  • 求めるものが手に入らないこと
  • 感情への囚われ

この4つの苦しみを加えて「四苦八苦」と言います。

この四苦八苦は、人が生きている以上、切り離せないものだとブッダは気づきました。

 

そしてこれらの「苦」を感じ取る役割を持っているのが「自我」です。

たとえば

  • 生きたい
  • 老いたくない
  • 死にたくない
  • いまの生活を失いたくない
  • あの子と付き合いたい
  • あんな奴いなくなればいいのに

こういった欲、つまり煩悩というのは、自我がその「苦」を感じ取った瞬間に発生するわけです。

この自我が「苦」を感じ取る作用のことを「集」と言います。

 

ここで注意したいのは、苦しみというものは、自我がそれを「集」めてくるから、発生するのだとブッダが主張している点です。

「苦」というもの自体が発生していても、それを「集」しなければ、「苦」は発生しないですよ、とブッダは言うのです。

 

つまり、自分の内部に「苦」があるのではなく、自我(煩悩)の作用によって、わざわざ「苦」を「集」めてくるから苦しいのだ、四苦八苦を感じてしまうのだ、というのがブッダの根本的な考えなのです。

ここがこの考え方の面白いところです。

 

たしかに人には、四苦八苦があるかもしれないが、そのことに抵抗、つまり「集」をしなければ「苦」は発生しないとブッダは主張するわけです。

 

死ぬことを怖れない、愛する人を失うことを怖れない、お金を失うことを怖れない。

怖れないというよりは、厳密には「気にしない」という感覚が近いでしょう。

こういう状態であれば、四苦八苦がいくら存在していても、「集」をしていませんから、「苦」しくないという理屈です。

 

したがって、この「集」をやめれば、煩悩=「苦」はありませんよ、そうブッダは主張しています。

そして自分がこの「集」を行っていることに気づき、そして「集」をやめること。それこそが「滅」です。

 

この「苦」「集」「滅」の流れこそ、まさに悟りそのものです。悟りのメカニズムを説明書のように記していると言ってもよいでしょう。

そうです。

それは下記の記事でも書いていますが、つまりこの「滅」こそ、悟りを開くための方法なのです。

自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

 

そしてこの「滅」を行う訓練をするために修行をしましょうというのが、「道」です。

 

四苦八苦の人生に生きる意味はあるのか

四苦八苦の人生は嫌だ

ところでこの「四苦八苦」ですが、生きることが苦しみだと言われると、

「生まれてくるんじゃなかった!」

「生まれてきたことが不幸そのものなのだ!」

などと悲観したりしてしまいがちです。

そんな悲観的なことが果たして本当にブッダの教えなのか?

 

そう思われるかもしれません。

 

そして、

 

「人生が『苦』なのであれば、もう生きている意味はない。自殺しよう」

そうお考えの方もいらっしゃるかもしれません。

 

 

しかし、だからこそ悟りを開くわけです。

自殺などしなくても、「苦」を退けるよう悟りを開くことで、心の平穏が訪れるのです。

悟りの道の幸福については下記の記事が詳しいです。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

 

また、人生は「四苦八苦」だと主張するブッダに対して、

「この世には楽しいことだっていっぱいある。ブッダは何でもかんでも悲観的に考えすぎだ」と、そういった反論があるかもしれません。

 

これについては、快楽すらも苦しみでしかないことによって説明がつきます。

それもこちらで説明をさせていただきました。

自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

 

快楽というのは、それをたしなんでいるうちは良いのですが、依存してしまうとさらに強い快楽を、と求めてしまう習性があります。

楽しいことのあとには、楽しくないことも待っています。

そのジェットコースターのような人生を生きるのも一つのあり方です。

一方で、そういう人生にはこりごり、もう疲れたというあなたは、私と一緒に悟りの道を進みましょう。

 

そのほかにも、

「生まれてきたことが苦しみだとは、何たる親不孝者! 失礼なことだ」

といった反論もあるでしょう。

 

生まれてきたことは苦しみだとしても、だからといってご縁によっていただいた人生を否定するわけではありません。

悟りの道には、親も子も関係ありません。ひたすら修行あるのみです。

 

まとめ

今回はブッダの教えの根幹である四諦について話していきました。

もうこの教えだけで、ブッダの教えのすべてが詰まっているといっても過言ではありません。

悟るために必要な情報はもう、この四諦の中にエッセンスとして詰まっています。

 

この四諦の道すじをたどり、どうぞ私とともに悟りの道を目ざしましょう。

 

ブッダは信仰心ゼロだった…神様も輪廻転生も、ましてや仏教すら信じないってご存知でしたか

ブッダの教えは宗教ではない

ブッダの教えは宗教ではない

仏教というと「成仏することによって、死後に極楽浄土の世界に行ける」というような輪廻転生の世界観が語られますよね。

困った時や、願い事を叶えたい時にも「神様、仏様」と、神様の力を借りようとします。

仏教に限らず、キリスト教やイスラム教など、宗教というものはだいたいそういった教義を持っています。

 

しかし、ブッダは、そういった死後の世界については言及していません。

「死んだことがないから分からない」

「考えても分からないことを考えるよりも、いまをしっかり生きよう」

このように言っているそうです。

 

仏教思想というものは、ブッダの死後、弟子達によって創作されたものなのです。

 

仏教の教えは嘘八百です

現在は仏教という体系化された宗教がありますが、ブッダがその教えを広めているときには、現代のような体系はなく、いわゆる「信じるものは救われる」、「神様に助けを乞う」というようなものではありませんでした。

 

宗教では、人知を超えた力に救いを求めますよね。仏やイエス・キリスト、アラーなどです。しかし、ブッダの教えにはそんなものはありません。

 

著書「怒らないこと」で有名なスリランカの僧侶、アルボムッレ・スマナサーラ老師もおっしゃっています。

この動画の開始1分過ぎをご覧下さい。

長老「いまは苦しくても、すぐ明るい将来待ってるんだぞとか、アホでしょ。ありえないでしょ」

「頑張れば救われますよ、とか。救われませんよ」

「残念ですけど、私は嘘は言えません。私は現実を教えてあげて、しぶとい人間にしてあげたいんです」

「頑張ったんだけど、全く結果がないんだと。だからしぶとい人間だったら気にしないでしょ」

「苦労したら必ず、幸福が待ち構えているんだよとか、嘘でしょあんなの」

「たまたま誰かが苦労して成功するんですけど、みんながそうじゃないでしょ」

「しぶとくなるしかないんです」

 

なんだこのジジイ、夢も希望もなくなることを言うなあ。と、ショックを受けられるかもしれません。

しかし、ブッダの教えでは、こういったいわゆる現世的な成功は苦しみの元なわけです。

成功すれば、いずれそれを失う恐怖が訪れる。苦しみからは逃れられない、そう考えるわけです。

 

こう解釈すると、ブッダの教えはいかにも厭世的なものに感じてしまいます。

ですから弟子達は、このとっつきにくさを解消するために、さまざまな創作をしたのでしょう。完全に余計なお世話です。

 

なぜなら、ブッダのいう悟りの世界にも、ちゃんと幸福はあるからです。

それがいわゆる一般的な成功とは無縁のものだとそう考えてもらえれば良いかと思います。

悟りの効用についてはこちらを参照下さい。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

 

さらにスマナサーラ長老は言います。動画の15分ごろです。

「迷信と神話でできている宗教とは、何の縁もない」

「ブッダは科学者も腰が抜けるほどの科学者なんです」

つまり、ブッダの教えは科学的なものであり、いわゆる信心の力でどうにかするものではないとおっしゃっています。

 

また、「考えない練習」などの著書で知られる住職の小池龍之介さんも「信仰心はありません」とおっしゃっています。

 

そうなんですよね。ブッダの教えを厳密に解釈すれば、宗教とは関係がないことが分かりますから、本当の意味でブッダの考えを忠実に考え、実践している方は、ブッダの教えのことを仏教とは言わなかったりします。

小池さんは、柔道などに習って「仏道」とおっしゃいます。

熱心な仏教徒として知られる評論家の宮崎哲弥さんも自身は、仏教徒というよりは、単にBUDDHIST(ブディスト)を訳した”仏教者”として考えているという風におっしゃっています。

 

幽霊が見えるなら、まず心療内科に行くべきです

幽霊が見えるなら心療内科へ

私も、宗教は全く信じておりません。法事などでは、お坊さんが仏壇に向かって念仏を唱えてくれますが、馬鹿馬鹿しいと思っています。

魂というものはあるかもしれませんが、分かり得ないものですから、そこにこだわることはありません。

仮に魂があったとしても、サンスクリット語を唱えるお経には何の意味もないと思います。

日本語に直したなら、アファメーション効果ぐらいは働くと思いますが。

 

墓石にも意味はないと思います。あれは死んだ者ではなく、生きている者が、自身の心を安らげるためにあるものです。

私も里帰りには祖父の墓には行きます。

ですが、仮に行かなかったからといって、ばちが当たったりするとは思いません。よく、ばちが当たるなどと言いますが、私を愛してくれた祖父は、私がまっすぐに生きていれば、墓石に「バカ」と書こうとばちを与えるとは思いません。

 

「悪霊が…」「幽霊が…」などと言う人もいますが「今すぐここで、霊を見せて下さい。私に呪いをかけてみてください」と言いたくなります。

霊がいたとしても、個人レベルに対してわざわざ攻撃を仕掛けてくるようなことはないでしょう。その場に邪気が溜まる、とかなら分かりますが。

また、悪い霊ばかりではないはずで、良い霊もいっぱいいるでしょうから、幽霊のことでどうこう言うのは馬鹿げた話です。

 

寝仏、寝釈迦仏はマジだった

ブッダは亡くなる際に「死後(死者)のことにこだわるな」と言っています。開祖がこう言っているのです。極楽浄土があるとも、死後の世界があるとも言っていません。

 

ブッダの教えには「毒矢の教え(たとえ)」というものがあります。

人が毒矢に刺されたとき、その毒がどういう種類の毒なのか、犯人が誰なのか、一体なんのために毒矢が放たれたのか、そんなことを考えていると、死んでしまいます。

そんなことを考える前に、さっさと治療をしなさい。

これがブッダの教えです。

毒矢の喩え

 

死後の世界がどうなっているのか、自分の未来がどうなっているのか、そんなことに悩んで暮らす暇があるなら、毎日をちゃんと生きなさいよ、とそう言っているのです。

極楽浄土を夢想するのは時間の無駄だと言っており、神に助けを求めるぐらいなら、いま自分にできることをしましょうと言っているわけです。

 

実に論理的な回答ですよね。

 

ですが、一般的には、今が苦しくても極楽浄土が待っている、とか、死ねば仏様になれるとか、そういった思想が仏教だと思われています。

しかし、ブッダの本当の教えというのは、生きているうちに、仏になる(=悟りを開く)ことを目ざしましょうという教えなのです。

 

せっかくのブッダが悟りによる幸福の世界観を伝えたのに、それを後世の人間が死後の世界だとか、祈りの力とか、ふざけた論理を持ち出したことで、めちゃくちゃになってしまいました。

まあ、戦国時代などはそういった論理を持ち出さなければならないほど、それだけ生きにくい時代でもあったのでしょう。

 

また、ブッダも悟った直後に「この悟りの境地を広めるのは無理だ、やめやめ」と考えたり、布教活動もかなり適当で、寝てばっかりしていたそうなので、無理もないかもしれませんね。

このへんの雑さも、ブッダの面白いというか愛らしいところです。

寝釈迦像

(寝転がっている釈迦の仏像も多いですもんね)

 

悟りの道は、自動車教習所のようなもの

みんな、仏教と言えば「宗教」「信仰」と考えてしまいますし、とくに「私はブッダを信じている」というと敬虔な教徒などと思われたり、怪しげな新興宗教に入ったのではないか? と思われがちです。

 

私も変なオカルトにハマっている人と誤解されることがあり面倒ですが、私自身、信仰心もなく、布教したいとも思っていません。

 

ですから「悟り」というと、いかにもスピリチュアルで怪しい雰囲気がしてしまいますが、どうかそういう解釈をせずに、悟りを開くことを自動車免許を取るようなものだと考えてもらった方が、まだ近いような気さえします。

 

ブッダの教えというのは、超人であったり、聖人であったり、そんな特別な存在になるものではありません。

むしろ、そういう存在になりたいということ自体が欲ですから、そういう飾り付けをすべて排除してしまう先に、悟りがあるとしています。

 

そしてまた「悟り」は死後の生活を保障するものでもありません。

いまこの現代において「生きやすいライフスタイルの提案」こそが、ブッダのいう悟りなのです。

まあ、悟りが「ライフスタイルの提案」というのは、あまりにも軽妙過ぎる表現かもしれませんが(笑)

 

それぐらいに考えても良いと思います。

自我(エゴ)による思考や雑念を消すための2つの方法

妄想に苦しめられる

自分自身、考えたいわけではないのに、たとえば次のようなことが頭に浮かんでくることってありませんか。

  • 自分は必要の無い人間なのではないか
  • 彼女に捨てられるんじゃないか
  • 借金が膨らんで、自殺するしかないかもしれない
  • 生きていても意味が無い

自分というものに付随する「思考」が、強制的にあなたにこのようなことを考えさせます。

思考はいつもいつも、私たちを苦しめてきます。このような言葉を使って、自信を失わせようとくるのです。

 

これらの妄想、雑念を振り払うことこそが“悟り”です。

しかし、どうしてもこういった悪魔のささやきが消えず、苦しんでしまうことがあるのではないでしょうか。

今回はそういったときの対処法について書いていきたいと思います。

 

「雑念を叩き潰せ!」とスマナサーラ長老はおっしゃいますが

悟りを開くために重要なのは、思考を止める、ということです。

それはこちらで書かせていただきました。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

 

簡単に申し上げますと、思考という左脳の働きを停止することで右脳が活性化し、過去や未来の呪縛から解き放たれた「いま」に意識を集中することができるのです。

そしてこれより、思考の重みから解放され、素晴らしい幸福感を得ることができるのです。

 

「ほうほう、ナルホド、では早速、思考を止めてみましょう」

と、スムーズにいけば良いのですが(笑)

 

この思考を止めるという作業のみで良いと言われても、この思考を止めることこそが難攻不落の絶壁なわけです。

 

とはいえ、私がお勧めしている

この二つを併用して瞑想に取り組めば、この思考という敵をかなり鎮めることができます。上記リンク先もぜひ、ご参照下さい。

 

確かに、思考を「敵」として捉えてしまうと、なんだかぶっそうに感じるかもしれませんが、スリランカの僧侶で「怒らないこと」の著書でしられるアルボムッレ・スマナサーラ長老も結構、物騒な発言をされています。下記の動画で、です。

「妄想を叩き潰す」「雑念を叩き潰す」などとおっしゃっています(笑)

(▼こちらの動画の26分ぐらいです)

悟りに至るには「丁寧な言葉遣いをしなければいけない」とか、そういう考えを持っていた私ですが、これが思い込みだと気づかされました。

(叩き潰す! をきいたときに思わず噴きました)

 

悟りに至らせないために、思考は色々な罠を仕掛けて、阻害してくるものですね。

  • 丁寧な言葉遣いをしなければ。
  • 怒ったりしてはダメだ。
  • いつでも冷静に対処しなければ。
  • 人を責めたりしないようにしよう。

こんな風な思い込みに、がんじがらめになっていませんか?

あなたももし「悟るためにはこうしなければ」というたくさんの思い込みをもたれているのであれば、その一つ一つに気づいていきましょう。

気づいていくだけで、その思い込みが少しずつ解消されるそうです。

 

さて、話がそれてしまいましたが、私の主張だけでなく、先のスマナサーラ長老や、小池龍之介さん、現代の悟りの先生であるエックハルト・トールさんもおっしゃるように、悟りとは思考を止めることです。

エックハルト・トール

(いつも変なチョッキをきているエックハルト・トールさん)

 

思考を止める。

悟るにはただ、これだけだそうです。

 

しかし、このたった一つのことである「思考を止める」ことが、とても難しくてできないわけですよね。

どうしてもネガティブな気持ちに苛まれてしまう。生きる力が失われてしまう。

 

こんなとき、この止まらない声をどのように止めていくのか、それについて書いていきたいと思います。

 

それにはこの次の動画がお勧めです。

この動画で、小池龍之介さんが思考への対処法を述べられています。ちなみに、最初のスマナサーラさんの動画と、この小池さんの思考への対処法は全く同じです。

 

自分の意志に関係なく、無理やり“思考させられている”ことに気づく

思考への対処法に入る前に、注意したいことが1点あります。

それは、ネガティブな思考というものは、いまあなたがそのことでネガティブになることによって、何一つ得をしないにも関わらず、思考によって無理やり考えさせられているということです。

 

自分が考えたいと思っていなくても、無理やり考えさせられているから、そのようなネガティブな思考に囚われているということです。

この時点で分かるように、思考は私たちの味方ではありません。

思考は、思考そのものが存在し続けるがためにこのように私という体を謀略して乗っ取っています。

 

ですから、思考にとってはあなたが困ろうが苦しもうが関係ありません。

思考は、私たちのことなど、どうでも良いのです。

 

“思考”さえやめれば、苦しまない

そして、大事なことは、思考による苦しみは、この思考自体が無くなれば、収まるわけです。

つまり、実際の出来事がどうであれ、そのネガティブな思考をしなければ、このネガティブな感情は無いわけです。

 

「いやいや、そんなことは分かっています。それでもこのネガティブな思考を止められないから悩んでいるんです。どうにかして下さい」という声が聞こえてきそうですね(笑)

 

しかし、小池龍之介さんによりますと、分かりきってはいるとしても、改めて、我々が「考えている」から苦しいのだと気づくことはとても重要なようです。

なぜかと言いますと、結局、苦しいのは自分のせいでもなく、誰かのせいでもなく、何が悪いとかではなく、思考がそう仕向けるから苦しいのです。

 

苦しんでいることで、得をすることはないのです。

にもかかわらず、無理に思考をさせられているのです。

 

ですから、この無意味な思考を「自分のせい」とか「何かが悪いから」、などという予備情報を付け足さずにただ、止めてしまうことが良いのです。

この思考さえ無ければ、あなたがネガティブな感情に苦しむことはありません。

我々はこの何一つ得をしない思考を

  • 考えたくもないのに考えさせられている
  • 全くの無駄な行為なので、止めてしまえば楽になる

というものだと肝に命じるべきです。

 

このくそファッキンくだらない、邪魔者である思考というものを叩き潰せ!!

スマナサーラ長老の言葉遣いが荒くなるのも無理はないわけです。

思考を叩き潰せ

思考が蔓延するのは「自分のせいではない」と分かると、少し心が楽になりませんか?

 

「考えている」と心の中で唱えるだけ

では、その上で、小池龍之介さんのお勧めの、思考への対処法を書いていきましょう。

 

それは「考えている」と心の中で3回唱えることだそうです。

考えている、と唱えることで、自分が考えてしまっていることを自覚する。

そして、考えているから苦しみがあるのだと自覚をすることで、そのネガティブな思考から解き放たれるようになります。

 

先ほども申しましたように、苦しみというものは、避けようのない天からの声、というわけではないのです。

どうしても我々は「その苦しみには逆らえない」と思ってしまいがちですが、そういったものではなく、ただ単に「思考が引き起こしていることに過ぎない」と意識することで、「あっそっか、自分は考えているだけなんだ」と、気づき、考えが静まっていきます。

「考えている」と唱えることで、その「考えている」という事実が客観化されて、クールダウンしていくという仕組みだそうです。

 

ですから

  • 「ああ、俺はなんてバカなんだ」
  • 「自分なんて世の中に必要の無い人間だ」
  • 「明日の仕事、嫌だなあ」
  • 「全然モテない」
  • 「今月もお金がないや」

こういった思考が生じたとき、すぐに「考えている、考えている、考えている」と心の中で唱えるのです。

そしてそういった思考を打ち消してください。

 

この「考えている」という言葉は「思考、思考、思考」でも「雑念、雑念、雑念」でも「妄想、妄想、妄想」でも何でも良いです。

思いついた言葉でつぶやきましょう。

もし3回唱えても収まらないときは、繰り返し唱え続けて下さい。

 

このようにして少しずつ、思考に対処していきましょう。

 

どうしても思考が止まらないとき

しかし、私も経験が有るのですが、どうしても思考が止まないこともあります。

例えば、片思いしている子に、デートのお誘いのメールを送って、その返事を待っている時などですよね。

どんな返事が来るのか、気が気ではない(笑)

メールを着信していないにも関わらず、着信音の空耳がしたり、携帯電話が震えたような気がしている。

携帯電話が気になって思考が騒ぐ

返事がなかなか来ないのは、電波が悪いせいではないかとウロウロと歩いてみる。

気にしないつもりでいるのに、5分ごとに携帯電話をチェックする。

返事が怖くなって、逆に携帯電話の電源を切ってみる。

そういう経験はないでしょうか(笑)

 

こんなときはどうすればよいのでしょうか?

 

正直言いまして、どうにもならないときは、諦めるしかありません。

諦めて、その心の揺れと向き合いましょう。

 

ひたすらその思考のノイズを観察することに集中して下さい。

ときには思考に飲み込まれたり、思考による心の痛みを強く感じるかもしれません。

脳内がまるで、嵐のときのように波うち、雷は鳴り続け、心という船は難破寸前になるかもしれません。

心の嵐と向き合う

しかし、じっと瞑想をし、耐えるのです。

瞑想をする集中力がなければ、ただ座ったり寝転がったりしながら、その苦しみを観察してください。

痛みを積極的に感じ続けるのです。

 

それで完全に収まるかどうかは分かりませんが、私の経験上、かなり落ち着くことができます。

また、落ち着くことができないまでも、ある程度、自分を客観的に見つめることができるようになります。

 

その思考はあくまでも、あなたのものではなく、思考そのものが、自らを主張するために表れてきているだけだと意識してください。

「この苦しみは、私とは関係がない」

そう感じるのです。

そして、自分自身は深く深呼吸し、心を体の神経に集中させ続けるようにしましょう。

 

まとめ

やがて心の平穏が見えてくる

人間というものは、とても思考の攻撃には弱いです。

絶対に立ち向かえるとは限りませんが、これも訓練次第です。

毎日、少しずつ、思考を対処する訓練を続けましょう。

 

そうすればやがて、心の平穏が見えてくるはずです。

ともに頑張りましょう!

 

▼思考を止めるための瞑想についてはこちらをご参照下さい。

小池龍之介さんが一番お勧めされているのは呼吸瞑想

ホ・オポノポノはやり方が簡単だけど、効果はあるのか?詐欺では?

 

「ホ・オポノポノ」というハワイに伝わるセルフクリーニング法があります。

セルフクリーニングとは何かと言われると説明が難しいですが、ようは自己浄化、自分の心を洗い流すためのトレーニング法(メソッド)です。

ホ・オポノポノは詐欺なのか

(画像は公式ページより)

 

私は、ホ・オポノポノも悟りに近づくための手法(メソッド)の一種だと思います。

 

悟りというものは履いて捨てても溢れ出てくる自我(エゴ)をとにかく排除するものです。

その考え方について詳しくはこちらをご参照下さい。

自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

 

このホ・オポノポノもこの自我を浄化するトレーニングですから、私が基本的にお勧めしている呼吸瞑想止観瞑想が面倒とか難しいと感じる方は、このトレーニング法が簡単だと思います。

やってみる価値はあるのではないでしょうか。

ぜひこの記事を読んで、ホ・オポノポノに親しんでみてください。

 

ホ・オポノポノとは、どのようなメソッドなのか

さてこのホ・オポノポノがどんな手法かと言いますと、実に簡単です。

モヤモヤしたものが頭に湧いてきたときに、次のように唱えるというものです。

「ありがとうございます。ごめんなさい。愛しています。許して下さい」

 

……急にうさんくさく感じ始めましたでしょうか?(笑)

 

そのお気持ちはよく分かります。

「こんないかにもスピリチュアリズムな呪文を唱えるだけだなんて、嘘くさい。スピリチュアル商法だ!」

そうお考えのあなたはスピリチュアル中毒にハマっていない、ちゃんとしたお考え、リテラシーをお持ちの方とお察しいたします。

 

確かに世の中にはうさんくさいスピリチュアル商法がありますが、このホ・オポノポノは一見うさんくさいですが、効果があると私は思います。

この4つの言葉をとりあえず唱えておけばよいので、お金もかかりませんから詐欺にもあいません(笑)

 

ホ・オポノポノについて詳しく知りたいというわけでないなら、本も買わなくてよいと思います。

 

本もいらない、唱えるだけ、ですから、やってみる価値はあるかもしれません。

何を隠そう、私も一時期、しっかりやっていたため、エゴがグッと降ってきたときには、この呪文を唱える癖があり、時々唱えたりしています。

 

ホ・オポノポノと瞑想の違い

 

ありがとう、ごめんなさい、愛しています、許してください

例えば彼氏と上手くいかないことでイライラしているといった自我のモヤモヤが湧いてきたとき、瞑想においては、こういったモヤモヤを俯瞰することを重視します。

その気持ちに同化せず、観察したり、その気持ちを受け流すわけです。

これにより、その問題で不快になることに意味がないことに気づいたり、気持ちを落ち着けることで、正しい考えを導き出したり、その根本原因に気づくことができたりします。

 

※ちなみに、瞑想で気をつけたいのは、「答えを導き出そう」とか「瞑想で問題を解決するんだ」などと考えて取り組まないことです。

なぜなら、そのように考えたとたんに、“瞑想を解決する手段として考える自我”が登場し、あなたをコントロールし始めるからです。

自我が出しゃばってくると、心はいつまでも静まりません。永久にあなたに対し、解決しようのない疑問を投げつけてきます。こうなると自我の思うツボです。

ですから、瞑想をする場合は、余計なことは考えずにただただ、瞑想に集中するようにして下さい。

 

話が逸れてしまいましたが、この話でもお分かりのとおり、瞑想というのは多少、面倒なものです。

 

それに対しホ・オポノポノは、この観察ができなくても問題がありません。

観察の代わりに、ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛していますの4つの言葉で、観察したときと同じような効果をもたらすわけです。

実に簡単ですねえ。

 

ホ・オポノポノが利用するのは言葉の力(言霊)

ホ・オポノポノは言霊を使う

ホ・オポノポノの場合、不快な感情を手放すために、瞑想のように観察する代わりに、言霊(ことだま)の力を借ります。

 

言霊、などというとまたスピリチュアル臭くなってしまうのですが(笑)、ようは“言葉の力”ということです。

 

たとえば「ありがとう」という言葉って、子供の時からずっと使っていますよね。

ですから「ありがとう」と口にした瞬間、心の中でも自然と「ありがとう」という気持ちが沸き上がってくるんですね。

「ごめんなさい」や「許して下さい」、「愛しています」も同じです。その言葉を口にした瞬間に、その言葉の感情が沸き上がってくるわけです。

 

では、このホ・オポノポノはこの言霊をどのように使っていくのでしょうか。

 

先のように彼氏と上手くいかないといった要因には

  • 彼氏が連絡をくれない
  • あなたに対して辛く当たる
  • 結婚を嫌がっている

——とか、そういったものが浮上してくると思います。

 

ところが、これらの不満は表面上のものでしかありません。

 

彼氏が連絡をくれないことで、心の底では、

  • 自分が軽視されているのではないか
  • 自分は彼氏に認められていないのではないか
  • 自分はこの世に必要な人間なのだろうか

といった根源的な不安に苛まれています。

 

そしてこれらの不安というのは、例えば、

  • 過去の過ちに対しての後悔の気持ち
  • 誰かに対しての不満の気持ち
  • 未来への恐怖
  • 自己卑下

というような気持ちから生じております。

 

ホ・オポノポノは、この根源的な不安に注目します。

そしてホ・オポノポノでは、この根本的な自我による心の不満、イライラ、悲しみなどの要因を4つのカテゴリーに分けるのです。

その4つというのが、つまり

  1. ありがとう(自分への感謝)
  2. ごめんなさい(自分への謝罪)
  3. 許して下さい(自分への許し)
  4. 愛しています(自分への愛)

です。

自我が生じさせる不快の原因を、これら4つに分類するのです。

 

不快な感情はだれのせいか

ここで少し、疑問が生じる方がいるかもしれません。

「不快な感情というのは、必ずしも自分の問題とは限らないのではないでしょうか」

「誰かが不快な行動をしたせいで、不快な感情に苛まれている場合は、自分のせいではないはずです」

 

これも確かにそうです。

しかし、不快な“出来事”と、不快な“感情”を同じように考えてはいけません。

 

なぜなら、心への不快な感情は、相手がどう思っているとか、相手がどういう態度だから、ということと、全く関係がないからです。

たとえ相手がどういう態度をしてこようと、あなたがそれに取り合わなければ、そこにダメージは存在しえないからです。

 

たとえばあなたが職場の社長に「君はクビだ」と言われると、ショックを受けるでしょう。

しかし、自分の幼い子供から「君はクビだ」などと言われたところで、ままごとにしか思いません。

同じ言葉であっても、言われている意味を、あなたがどう捉えるかだけで、気持ちの有り様は変えることができるわけです。

 

それはつまり、相手の行動のせいであなたがショックを受けているのではなく、相手の行動に対して、あなたがどう反応するかが原因だということです。

 

お怒りの上司から「君のために怒っているのだぞ」と言われたときに「うるせーよバカ」と思うのか「ああ有難いことだな」と思うか「この男は自己顕示欲を満たしたいのだな」と思うかは、相手の行動に関わらず、あなたが決めています。言い換えると、あなたが決めることができるわけです。

つまり、あなたの心は、相手がどういう行動を取るかに左右されません。

すべて、あなた自身が決めることができ、そして逆に言うと、あなた自身がすべての不快な気持ちを自分自身で引き起こしているということです。

 

もちろん「クビになる」とか「怒られる」という不快な“出来事”が客観的に生じているという事実は確かにあります。それに対して、どう反応するかはあなた次第ということです。

その不快な出来事を何でも許容しろという意味ではありませんので、ご理解ください。

 

では話を戻します。

 

ホ・オポノポノは自動的に心の問題を処理してくれる

ホ・オポノポノがもたらす力

ホ・オポノポノは、そのように4つに分けた不快な感情のカテゴリーに対して、その感情を癒すことができる言霊を投げかけることで、瞑想と同じように心の中の掃除していくのです。

 

ホ・オポノポノが優れているのは、言葉の力を借りるわけですから、その感情が4つのカテゴリーのどのカテゴリーに属しているか、原因は何なのかを考える必要がないということです。

 

つまり、原因がどういうところにあるのか分かっていなくても、言葉を述べると自然に沸き上がってくる気持ちを使って、自動的に心の整理をしてしまうという荒技を行うわけです(笑)

 

しかも、さらに荒っぽくて、そして画期的なところは、その感情は4つの感情のどれかに属しているはずなので、4つの感情の“どれかが当たればそれで良い”とばかりに、4つの言葉を全部述べてしまうところです。

 

なので、

ありがとう、ごめんなさい、許して下さい、愛しています

と、いちいち4つすべてを唱えるわけです。

 

いずれかの言葉が、心に刺さるだろうというわけです。

実に面白いですね。

 

まとめ

さて、今回のお話で、ホ・オポノポノに興味を持っていただけましたでしょうか。

 

私個人としては、やはり瞑想の方が効果としては分があると思います。

ホ・オポノポノは簡単な分、浸透が遅いように思います。

 

瞑想もそうですが、つねに自我を停止状態にしている方が悟りには良いわけです。

であれば、仮にホ・オポノポノで悟りに近づくとしたら、いちいち起こってくる不快な感情に対してすべてに呪文を唱えなければなりません。

 

となると、やはりその感情を捕まえる訓練が必要になります。

つまり、瞑想における“観察”が必要になるわけです。

 

ホ・オポノポノをするにせよ瞑想をするにせよ、結局向かう先は同じ、ということなのかもしれませんね。

小池龍之介さんが一番お勧めされているのは呼吸瞑想

呼吸瞑想で悟りを開く

小池龍之介さんが一番お勧めされているのは呼吸瞑想だそうです。

瞑想の役割は思考を止めることです。
思考、つまり左脳の暴走状態にある我々は、あるがままの状態を享受させてくれる右脳が機能していません。

そのため、苦痛を感じてしまいます。

そのことについての記事はこちらに詳しいです。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

 

小池さんはご自身が管理されている月読寺のほか、カルチャーセンターなどでも座禅指導をされているそうです。

そこでよく教えていらっしゃるのが呼吸瞑想だそうです。

ではその呼吸瞑想について書いていきたいと思います。

 

悟りはスピリチュアルなものではありません

瞑想によって、アセンションがどうとか第3の目が開いたとか、天使が見えたとか、宇宙の波動がどうとか、色々と怖いことを言う人がいますが、基本的にはそれ自体が左脳による妄想か、夢の一種だと私は考えています。

a99209865069145b03e8fb91164f3be0_s
もちろん、超常現象的な力を否定するわけではないのですが、現実主義者にとっては、そういったオカルトな情報は悟りに特殊な妄想を抱いてしまい、かえって気づきを遠ざける気がします。

そんなスピリチュアルでオカルトな空想を持たなくても、左脳の働きを抑制し、右脳を活性化させれば悟れると私は考えています。

 

上記のリンク先で、スリランカの僧侶であるアルボムッレ・スマナサーラさんも

「思考をやめるのは物凄い難しい」

「左脳が、何兆もの細胞が思考させるために構えているのだから大変です」

「しかし、ちゃんと頑張る(思考を止める)とだいたい2週間で成功します」

「思考を止めてみたら悟れます」

「たったそれだけです」

と、実にあっさりと「悟れますよ」と語ってくれており、スピリチュアルパワーや天使の力を借りなくても、普通に思考を止めるだけで悟れるということですから、その言葉を私としても心強く思っています。

 

呼吸瞑想のやり方

さて、この呼吸瞑想はとても簡単です。
自分が行っている呼吸に意識を集中させるというものです。

 

 

  1. 目を閉じる
  2. 自分が鼻を通じて、吸っている息や吐いている息に意識を向け、集中する
  3. 自分が息を吐いている、吸っていることに気づく

 

意識しなければ普段、気づかないことに意識をするわけです。

呼吸は刺激が少ないものですから、普段は大きな音や、食欲、性欲、怒り、不満、悲しみといった強い刺激にまみれて気づかないものです。

 

しかし、意識をしなければ気づかないものに、気持ちをあえて向けることで、高い集中力が付きます。

集中力をつけると、強い刺激がなくても集中できるようになってきます。

自我という強い刺激に支配されない自分を作っていくわけです。

 

雑念も湧きますが、湧いてきた雑念は「雑念、雑念、雑念」と10回くらい心の中で唱えることで、単なる雑念だと俯瞰させ、打ち消していきます。

 

この呼吸のうっすらとしたとした刺激に集中できた時点で、思考は完全に消え、「空」を体感できます。

小池さん曰く「完全に掃除されて、リフレッシュされた状態」になります。

 

 

 

基本的には、難しく考えずに、ただあぐらをかいで座るか、椅子に座ってやれば良いと思います。

呼吸瞑想における細かい座禅の組み方などは、下記をご参照ください。

座禅の組み方、「結跏趺坐」「蓮華座」をする意味、理由とは…

 

 

座禅瞑想は、難しい知識もルールもなく、呼吸に意識を向けるだけ、という非常に簡単なものです。「簡単だから悟れない」ということもありません。

 

座禅瞑想だけで十分に悟れると思います。

座禅の組み方、「結跏趺坐」「蓮華座」をする意味、理由とは…

結跏趺坐のやり方

瞑想の一種である座禅。

これには結跏趺坐(けっかふざ)、蓮華座(れんげざ)という、座禅における基本形があります。

上の画像をご参照ください。これがその結跏趺坐、蓮華座です。どちらも同じ意味です。

私はなぜこんな座禅の組み方をするのか不思議でした。

 

だって、痛いですもん(笑)

 

仏像をみても、みんながみんなこの足の組み方をしていますから、このやり方には意味があるんでしょう。

では一体どういう意味があるのでしょうか。

 

足が痛くなるだけの結跏趺坐に意味はあるのか

結跏趺坐をやってみると、めちゃくちゃ痛いです。そしてできない。さらには血流が止まる。

結跏趺坐で足が痛い

こんなこと、どうしてしなくてはならないのかと不思議でした。

 

しかし著書「考えない練習」で知られている小池龍之介さんが、この結跏趺坐の意味を答えておられました。

その理由は単純明快です。

 

長時間座っていても、足が痛くならないから。

 

もちろん、関節が柔らかくなって、慣れてからのことですが、慣れると、長時間座っていても足が痛くならないそうです。

 

たとえば正座。これはすぐに痛くなりますよね。

椅子に座っていても、すぐに痛くなります。

しかし、結跏趺坐は痛くならないのだそうです。

6、7時間座っていても平気でいられるようです。

 

ちなみに、私は結跏趺坐ができませんので(笑)、実践していませんが、お釈迦様が悟られた時にもこの結跏趺坐で座しておられ、小池さんも実際にされております。

また、インドの昔の仏教者で非常に高名な龍樹(ナーガールジュナ)さんがまとめた「大智度論」7巻には次のようなやり取りがあります。

 

「多くの坐法有り、仏、何を以ての故に、唯だ結跏趺坐のみを用いるや」

答えて曰く、「諸の坐法中、結跏趺坐、最も安穏にして、疲極せず」

 

これを現代風に訳しますと、

「いろんな座禅があんのに、悟っている人はなんで結跏趺坐しかせえへんのや?」

答えて曰く、「いろんな座禅の中で、結跏趺坐が一番楽で、疲れへんのや」

 

とのことです。

従って、結跏趺坐は疲れないというこの理屈は信ぴょう性が高いと思われます。

私自身も関節を柔らかくし、実験してみたいとは思っております。

 

 

ちなみに、結跏趺坐の中でも意味のないものがあります。

結跏趺坐のうち右足を上にするのが「吉祥坐」、左足を上にするのが「降魔坐」などと言うそうですが、これはどうでもよいと思います。

 

もしかしたら、どちらかを上にすればより右脳を活性化し、左脳を抑制するというような作用があるのかもしれませんが、そこにこだわって自我がでしゃばってくるよりも、思考を止めることに集中した方が良さそうです。

お釈迦様もおそらく「どっちでもいい」とおっしゃると思います。

あまり気にせずやりましょう。

 

半眼になる意味や、効果があるのか

半眼。座禅

また「半目を開ける」ということを勧める本もあります。

お釈迦様が半目、かっこ良く言いますと「半眼」だったからだそうです。

 

これはどういうことなんでしょうね。

「半眼になって、鼻先をみる」というのが基本的なポーズらしいです。

これをやってみると、なるほど、視線を鼻先に集中させるため、思考が生まれにくいですね。

また、眠ってしまうことがなくなるかもしれません。

 

 

 

 

私はまばたきが気になるので、目は閉じます。小池さんも目を閉じることを勧めておられます。どちらでもよろしいのではないでしょうか。

 

私が思うに、お釈迦様が半眼だったのは、半眼になったまま寝ている人がいるように、自然にそうなっただけのような気もいたします。

 

ちなみに、寝ているとき、人の目は動いているそうです。

脳機能学者の苫米地英人先生の著書によると、記憶を司る「海馬」という脳の神経と、目の神経はつながっているそうです。

人間は寝ている間に、起きているときの記憶を整理するそうで、寝ている間に海馬がピコピコと働いているそうです。

そのときに、目の神経も釣られてピコピコと動いてしまうそうです。

 

苫米地先生によると、寝ている時と同じように、目を閉じて、眼球を上の方に向けると、寝ている時に海馬が情報処理を行っているのと同じような効果が出るそうです。

 

つまり、脳内の情報を整理する効果があるとのことです。

この技を苫米地先生はラピッドアイロールと呼んでいます。

 

実際にやってみられると分かりますが、瞑想状態の時にも、自然とこの位置に目が行っていませんか?

 

 

私が思うに、瞑想にはこのラピッドアイロールの効果も関係しているような気がいたします。

また、このラピッドアイロール状態のとき、時々、半眼気味になっているときがあります。

私は目が小さいのでなりませんが、もしかしたら目の大きい人であれば、半眼になるかもしれません。

もしかするとお釈迦様はこのラピッドアイロール状態だったので、自然と半眼になっていたのかもしれません。

 

 

 

小池さんによるとお坊さんが「喝!」とか言って、警策(きょうさく)と呼ばれる棒で、ぼんやりしている人をバシーンと叩くものもありますが、あれは要らないそうです。

確かにあれがあると、心が落ち着かない気も致します。

 

法界定印は必要があるか

また、お釈迦様が悟ったと言われるときにしていた手の形。禅定印とか法界定印とか言うそうです。

法界定印、禅定印

これも、これをしなければならないということはないと思います。

私はなんとなく、手の置き場所に困るので、この形をしています。

この手の中の輪っかの中に、自分の自我を置いておく、という意味があるというのを聞いたことがあります。

ただ、自我は存在しませんから、この解釈を採用する必要はないと思います。

 

結跏趺坐なんてしなくて良い

私自身、結跏趺坐ができませんので、それを正当化するわけではないですが、結跏趺坐ができなくても悟れると思います。

結跏趺坐が痛くてできないことを理由に瞑想を諦めるぐらいであれば、椅子に座って瞑想をするほうが進歩的です。

 

小池さんも、スマナサーラ長老も、こだわらなくて良いとおっしゃっております。

 

また、お釈迦様は苦行を捨て、座禅をしたからこそ悟られました。

苦行はいかんのです(笑)

歩きながらでも瞑想はできる? 「止観瞑想」のやり方

止観瞑想とは何か

止観瞑想というものがあります。

 

解釈はたくさんあると思いますので、もしかして間違っているかもしれませんが、私流の解釈でご説明させていただきます。

 

止観瞑想の仕組み

止観というのは、

  1. 思考を止めること
  2. 心を観察すること

この2つから成り立っていると思われます。

 

自我=思考が悟りを遠ざけることはすでに書かせていただきました。

自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

上記では、心の観察についても書いておりますが、もう一度書いておきます。

 

基本的には、思考すること自体を遠ざけます。

思考が苦しみの原因であることは、上記リンク先ですでに書きました。ですからその思考を止めるわけです。

止観のうちの「止」に集中するわけです。

 

しかし、その「止」を乗り越えて、紛れ込んでくる思考があります。

自我を完全に消すことは難しいですから、いくら瞑想を極めていても、思考は紛れ込みます。

 

たとえば、

「私は誰にも愛されていない」などと、ネガティブな自我の声が聞こえてきたとします。

すると、その言葉が心の中に染み込む前に、そのネガティブな思考を発見した時点で「あっ、思考している!」と気づくことに意識を向けること。

これが止観のうちの「感」、つまり観察です。

このように「あっ、思考している!」と気づくことができれば、その声を「止める」ことができます。

 

  1. まず「止」で、思考を止めます。
  2. そしてそこから漏れてくる思考を「観」で、再びせき止める。

このように、2重チェック対策による防波堤をつくることが、止観瞑想です。

 

外出しながら瞑想できるのが強みです

止観瞑想は歩きながらできるのが強み

この止観瞑想はなかなか便利です。

止観瞑想をしながら、外出することができます。

座禅瞑想ではできませんからね。

 

この止観瞑想をしながら外出してみてください。なかなか面白いですよ。

 

止観していると、外部から様々な情報がインプットされていくことに気づきます。

まずは音ですよね。

電車のアナウンスの声や、工事の音、車が走る音など、普段はなかなか気づかない、たくさんの音で溢れています。

 

また、歩いていると

「うわ、あの子かわいいぞ」

「あの人、変な髪型だなあ」

といった、人物評のような思考が湧いてきます。

 

また、体の内部からは

「食べすぎて胃が痛いな」

「昨日、足首ひねったみたいで痛いなあ」

といった情報が流れてきます。

 

さらに、自分のことですね。

「いま俺、変な髪型になってないかな」

「目ヤニ付いていないかな」

そんなようなメッセージまでさまざまな思考が湧いてきます。

 

無意識的に思考していたら気づきませんが、改めて観察してみますと、実にたくさんのことを考えています。

ばかばかしい考えもたくさんありますね(笑)

 

条件反射的に行ってしまう動作にも気づくこと

中でも、「怒らないこと」の著書で有名な僧侶であるアルボムッレ・スマナサーラさんが指摘されるには、例えば、

  • 頭がかゆい
  • 髪の毛が目にかかる

そういったときにも、我々は条件反射的に頭を掻いたり、髪の毛を触ってしまいますが、これが自我の言いなりだとおっしゃいます。

かゆさに気づくこと

 

「かゆい」

という思考が降ってきたら、まずそのことに気づくこと。

 

これは先に述べた、音や他人に対して出てくる気づきと同じように気づけます。

しかし、一般の思考に比べて、これは結構、捕まえるのが難しいです。

 

無意識的にやっていた、髪をかきあげたり、かゆいところを掻いたりする動作ですから。

しかし、その動作に気づくと、そこで、実際に髪をかきあげるか、かゆいところを掻くかという自分の選択ができるようになるわけです。

 

これに自我は驚くわけですね。いままで言いなりに動いていたあなたの体を、またしても反射的に操ろうとしたところで、止観によってストップされてしまうわけですから。

このようにして少しずつ自我のいたずらに事前に気づいていくこと。これが悟りへの道なわけです。

 

自我こそ、あなたにたくさんの迷惑メールを送りつけている本人です

  • かゆい
  • 髪をかきあげる
  • 貧乏ゆすり

こういった条件反射的にやっていたことに気づくこと。

これは小さいことではありますが、これも自我に操られないための気づきという意味では、大きな効果があります。

 

このようなさまざまな思考からの声に気付いていくことで、思考からのコントロールを脱することができます。

思考は常に私たちに何らかの刺激を投げかけてきて、そしてそれらの情報をインプットするよう“半強制的に”働きかけてきます。

 

イメージとしては、たくさんの迷惑メールをどんどん送りつけてきている感じだと思ってください(笑)

自我の声は迷惑メールみたいなもの

そして、従来の我々は、それらの迷惑メールにいちいち反応し、いちいち開封しては「なんてうっとおしいメールなんだ!」とイライラしたり「もっと面白いメールはないのか?」とイライラしたりしていました。

 

そんなメールは開封しなければいいのです。

 

そしてたまに気分を良くするメールを見つけると、それはそれで「幸せなメールが来た!」と喜ぶのです。

しかし、「考えない練習」の著書で知られる僧侶の小池龍之介さんによりますと、たとえ快楽であっても、すべての刺激は、苦しみだとおっしゃいます。

これについても、先ほどの記事に記しております。

自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

 

もう一度簡単に説明させていただきます。

例えばおいしいご飯。これも幸せなのですが、その幸せのビリビリ感が麻薬的に機能し、またおいしいご飯を食べたい!と依存してしまいます。

そして、そのおいしいご飯が食べられなければ、不幸だと感じてしまう。

また、仮に食べられたとしても「次はもっとおいしいものを!」と、欲望はどんどん肥大し、コントロールできなくなっていってしまいます。

 

恋愛も同じです。

彼氏、彼女とラブラブのときは幸せですが、そのビリビリがない会っていないとき、

  • 「彼は今頃何をしているのだろう?」
  • 「もしや浮気でも?」

などと、ラブラブのビリビリの代替として、別の不快なビリビリを発生させてしまいます。

そして彼から幸せをもたらすビリビリを要求するのです。

また、その要求自体も、もっともっと! と、エスカレートしていってしまいます。

ラブラブメールに依存するのも思考のせい

 

ですから、例えば、そのメールが、おいしいご飯へのご招待メールだったり、超エッチなお姉さんと出会えるメールだったりすると、興奮してビリビリが出まくるわけですが、これこそが自我の思うツボです。

そのビリビリをきっかけに、自我に依存させ、そしてまた別の不幸のビリビリまで引っ張ってきたりするわけです。

 

我々はどんどん送られてくるメールを無意識的にいちいち開封して、一喜一憂しています。

ですからまず、メールが届いた時点でそれに気づくことができれば、受け取らないこともできるのです。

これを止観瞑想で止めるわけです。

かゆいと感じたときに、ボリボリと条件反射的に掻いたりしない。

ボリボリ掻いてしまっては、自我からの迷惑メールを何の考えもなしに開封していることと同じだからです。

 

このような観察を、日常生活の中で用いることができるのが止観瞑想です。

 

普段から簡単に悟りに近づいていくことができる、合理的かつ簡単な方法です。

実に簡単に取り組めることが、今回の記事でお分かり頂けたなら幸いです。

ぜひ今から、この止観瞑想にトライしてみてください。

自我の刺激を排除すれば、悟りを開くことができる

悟りに至るためには、エゴ(自我)が暴走し、思考が止まらなくなってしまう状態、つまり左脳の暴走を止めなければなりません。

左脳の暴走を止めることで悟りを開ける

左脳が停止している状態、つまり思考停止状態にあるとき、右脳が活性化を始めて、悟りに至ります。

それについてはこちらの記事をご参照下さい。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

 

しかしなぜ我々は思考してしまうのでしょうか。

そして思考しているときの脳のメカニズムはどのようになっているのでしょうか。

それについて今回は学んでいきたいと思います。

 

小池龍之介さんの本「『我』を張らない人づきあい」から学ぶ

今回は「考えない練習」の著書で知られている小池龍之介さんの本「『我』を張らない人づきあい」で学んでいきたいと思います。

 

この本は、左脳(思考)がいかに我々を阻害し、悟りを遠ざけているか、科学的に語ってくれています。

スピリチュアルパワーで、宇宙の神様が〜とか、エンジェルが〜とか、インナーチャイルドが〜というような、いかにもスピリチュアルなワードが苦手な方にお勧めしたいですね。

 

自我とは何か

小池龍之介さんは「本当は自我など無い」とおっしゃっています。

これはスリランカの僧侶であり「怒らないこと」の著書で知られるアルボムッレ・スマナサーラ長老もおっしゃっていますし、スピリチュアル系の方なら誰もがおっしゃっていますね。

「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」の著者であるエックハルト・トールさんもおっしゃっています。

 

つまり、悟りの世界において「自我がない」ということは、悟っている皆さんが感じておられることのようです。

ではこの自我とはそもそも何なのでしょうか。

 

確かに、人間には脳と呼ばれるものしかなく、心というものは厳密にはありません。

脳には、神経細胞に流れる電気的な刺激しか存在していないからです。

そしてこの脳から送られる電気刺激こそ、心の正体です。

自我は脳に流れる電気刺激に過ぎない

我々はこの電気刺激によって流れる電流によって、快楽を感じさせられたり、悲しみを感じさせられたり、怒りを感じさせられたりしているわけです。

 

 

そして小池さんはおっしゃいます。《》内が引用部分です。

《こう見てまいりますと、「刺激を自発的に感じている自分」などはどこにもおらず、むしろ刺激を“感じさせられ”、時として「快」と錯覚させられているだけです》

 

そうなんですよね。よく考えますと、例えば心の痛み、不幸な気持ちというのは、自分で発しているわけではなく、心が勝手にその痛みを運んできて、無理やり私に押し付けてきているわけです。

そこに私の選択はないわけです。

剛田ニズム宣言

(「お前のものは俺のもの」まさにジャイアンのような剛田ニズムに我々はさらされているわけです)

 

私自身も、いまは選択できるようになってきてはいますが、もともとはジャイアンよろしく無理やりその刺激を受けさせられておりましたし、いまでも例外ではありません。

 

ちなみに、刺激を選択するということがどういうものかと言いますと、、

まずは心の痛みが降ってきたときに、それを感受する前に、「痛みを感じさせてやろう」と痛みが降ってきていることに気づき、その心の痛みの雨を避けるということです。

 

感情が自分の心を捉えようとしていることに気づけば、それが心に到達する前に、あるいは心に到達してしまって一瞬、ウッ! という刺激を受けたにせよ、それを避けることができます。

この繰り返しにより、あらゆる刺激をナチュラルに避けられるようになることが悟りへの道だと私は考えています。

 

自我は「生きている実感」が欲しい

我々はなぜ、そのような刺激を求めてしまうのでしょうか。

 

我々がまず求めるのは、食欲、性欲、睡眠欲という3大欲求です。

これらは生きるために欠かせませんので、その感覚自体は受け入れるべきものです。

しかし、自我の作用によって、無理やりその感覚を押し付けられている可能性について検討してみましょう。

 

食欲で言いますと、基本的には一汁三菜を食べることができましたら、それで満足できるものです。

自我は一汁三菜では満足しない

あまりに食べ過ぎますと、胃腸に負担がかかりますし、苦しくなって気分が悪くなってしまったりします。

もしそうならないとすれば、心がすでに麻痺しているかもしれません。

その結果、ブクブクと太ってしまいます。

 

 

太ってしまうということ自体、食欲が抑えられないという心の病があるかもしれません。

太っているぐらいなら良いですが、過食症とまでなると大変です。

 

食べる、ということには刺激があります。

甘さ、辛さ、そして喉を通って胃に収まる時の満足感。

これがビリビリと刺激になり、幸福感を得るのです。

 

しかし、胸焼けするまで、あるいは太ってしまうまで食べたくなってしまうのは、それは自我が何としてもビリビリと刺激を感じたいからではないでしょうか。

 

我々(というか自我)はビリビリと刺激を感じているときに「生きている」という実感を得ることができるようです。

従って、強いビリビリ感があればあるほど「生きている」という感覚を持てるのです。

 

それは自我にとってはとても重要なことらしいです。

私、あるいはあなたの本体がどうなろうと、どうでも良くて、ただ自我自身が「生きている実感」を求めたいがために、私やあなたの体を乗っ取って、太ってしまうまで食事をさせられているのです。

 

そしてここで重要なのは、自我にとっては私やあなたの体そのもののことはどうでも良いと思っているということです。

そうですよね。

でなければ、ブクブクと太ってしまったりするわけがありませんから。

 

あなたがフラレてしまって悲しいのも、あなた本体がダメージを受けているわけではなくて、自我が「私は悲しい!」という刺激をビリビリと出しているだけのことです。

 

フラれてしまった悲しさから、元彼に1日に10通もLINEを一方的に送ったりする人もいるそうですが(私が聞いた話では、200通という方もいらっしゃいました)、こんなことをしても元彼は余計に離れていくだけです。

 

たとえ、状況が悪くなることであっても、自我はあなたの体を乗っ取って、仕掛けてくるわけです。

自我にとって、あなたのことはどうでも良いのです。

 

とにかく自我は

  • 「自分はここにいるんだ!」
  • 「自分を見てほしい」
  • 「自分を感じてほしい」

と訴えかけてきます。

 

そのためのなりふり構わない努力によって、私たち本体は振り回されて、そしてさもそれらの自我の行いを、自分本体が感じていることであるかのように、錯覚させられてしまうのです。

自我がなりふり構わずコントロールしようとしてくる

小池龍之介は先の本でこのように書かれています。

《こんな刺激的な情報を“見ている自分は確かにここにいる”とだまされるのです》

 

そしてこの自我のビリビリの刺激は、一度その刺激を感じるともうそれには慣れてしまいますから、「次はもっと強烈な刺激を」と求めてしまいます。

 

食べ物だったら「もっともっと美味しいものが食べたい」となります。

賞賛を浴びたいのであれば「Facebookでみんなが『いいね!』をしてくれているけど、もっともっと『いいね!』が欲しい。もっともっと賞賛を浴びたい」

と、エスカレートしていき、止まらなくなってしまうのです。

次から次に、より強い刺激を求めていくようになってしまうのです。

まさに麻薬ですね。

 

何の得にもならない自我の刺激からは遠ざかっていくことが、幸福への一番の近道だということがお分かりいただけるかと思います。

 

なぜ「自我」というメカニズムが存在するのか

同著において小池さんは、そもそもなぜ自我というものがあるのか、という疑問に対し

《人間に組み込まれたプログラムとは、すこぶる大雑把に、こうやってエスカレートしていくようにしておけば、何人かはそのために不幸になり破滅してしまうかもしれませんが、何人かは暴れまわった挙句、不特定多数との異性とも生殖行為をして子孫が増えていくであろうよ、といういい加減なものと邪推することもできるかもしれません》

とお答えになっています。

 

要するに、動物的な本能、つまり弱肉強食の原理こそ、自我が発生する要因だと述べておられます。

エゴの本能は弱肉強食

自我が暴走した社会では

  1. 自我の刺激が運良く良い方に左右した人間
  2. 自我の刺激が運良くそこそこ良い方に働いている人間
  3. 自我の働きで、良くも悪くもない人間
  4. 自我の働きが悪い方に作用している人間
  5. 自我の働きのために、非常に苦しんでいる人間

 

と、良いものから悪いものまで5パターンが出てきますが「このうち1〜3までは生き残って、あとの4、5は淘汰されたらよいのだよ」というのが自我のプログラムではないか、と小池さんはおっしゃっているのです。

 

現代は「新自由主義(ネオリベラリズム)」が蔓延しているといわれております。

お金持ちはどんどん儲かっていき、ハッピーな人はどんどんハッピーになれる一方で、貧乏であったり、苦しんでいても社会保障は最小限という二極化が進んでいるのは、この新自由主義の影響です。

新自由主義こそ、この自我の原理そのものと言えるでしょう。

 

しかし、このように弱者が切り捨てられる社会が果たして正しいのでしょうか?

自我のプログラムからかけ離れた社会こそが、あるべき姿だと思えてなりません。

 

無我の境地とは

それでは、悟った人がおっしゃる無我とは一体なんでしょうか。

自我が邪魔者、ダメなものだということは分かって参りましたが、では、自我が無い状態では、私たちには何が残っているのでしょうか。

いわゆる無我の境地とは、どういったものでしょうか。

 

これは

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

の項でも書きましたが、脳科学者のジル・ボルト・テーラー博士が、脳卒中になって左脳(自我、エゴ、思考)の機能がストップし、右脳だけの状態になったときの感覚にあると思います。

テーラー博士はこのように述べています。

「左脳のささやきが完全に途絶えました」

「まるで誰かがテレビのリモコンを取り、ミュートボタンを押したかのように全くの静寂になりました」

「すぐに周囲の大きなエネルギーに魅了されました」

「全てのエネルギーと一体になり、それは素晴らしいものでした」

「私はこの空間を親しみを込め『ララランド(陶酔の世界)』と呼んでいます」

「外の世界と自分をつなぐ脳のしゃべり声から、完全に切り離されているのです」

「この空間の中では仕事に関わるストレスが全て消えました」

「平安で満ち足りた気分になりました」

「想像して下さい。37年間の感情の重荷から解放されるのがどんなものか!」

「ああ! なんという幸福。幸福。とても素敵でした」

 

これこそが悟りの境地だと思われます。

 

しかし「この境地になりたい」などと強く願いますと、それはまた自我の思うつぼです。

そんな余計なことは考えず、ただ思考を止めることに集中することが肝要かと思われます。

 

小池さんは悟りの状態について何とおっしゃっているでしょうか。

 

《それらのノイズを消して落ち着いた余裕を持ち、佇んでいられましたら、初めて「良い子のフリ」ではなくて、本当の慈(やさしさ)を相手に向けることができるでしょう。すなわち純度の高い、純粋な人付き合いが、“生まれて初めて”可能になり、しかもそうすることが、ほかならぬ自分自身にとって深い充足感をもたらしてくれることが、実践してみれば腑に落ちるでしょう》

 

《そしてその蜃気楼を取り除いてみさえすれば、自由自在になるばかりか、すべてがさらさらとなめらかに流れてゆくのですから、この邪悪なプログラムから脱出することはいかに有意義であり、人類に組み込まれた、ひょっとしたらDNAによる支配命令と呼んでよいかもしれないものに対して、革命を起こすことにものなると申しても過言ではないでしょう》

 

どうですか?

悟りへの道へ進みたくなりませんか(笑)

 

悟りの境地には簡単には達することができないと思いますが、自我に振り回され、苦しめられる生活はもうまっぴらです。

 

自我から離れ、平穏に暮らしたい。

そういった思いがあるなら、私とともに、自我から離れ、無我の境地に入る訓練をしていきましょう。

悟りとは何か? 悟りとは科学的なものだった

悟りを開く

私は、人生において大きな苦労なく育ってきました。

 

しかし、

  • パニック障害という精神的な病に子供の頃から苦しめられてきた
  • 「食べる」ことが嫌で、そのために父から怒号を浴びせられてきた

という幼少時代からのトラウマがあります。

 

これらによる心のダメージは、人格形成に大きく影響を及ぼしていると思います。

 

そして大人になるにつれて生きにくさや、友人の借金の返済の手伝いなど、思い悩むことが増えました。

 

こういった心へのダメージから、本当にすべてのしがらみから去りたい、すべての苦痛、苦しみ、苦労から解き放たれたいと感じるようになりました。

そして、そのための逃げ道、苦しみからの逃げ道として、悟りを求めてきました。

 

悟ることができれば、楽になるのではないか、すべてのストレスから解き放たれるのではないか、と。幻想めいたことを考え、現実逃避をしておりました。

 

凡人でも悟りを開けることが分かった

あなたもそうかもしれませんが、私にとって「悟り」というものははじめ、何か神秘的な魔法のようなものだと考えておりました。

一般市民ではとうてい達し得ないような、達観した仙人にしか到達できない領域ではないのかと。

 

俗世間を捨てて、お坊さんになり、すべての欲を捨てて、山奥に籠もって、ひたすら修行をしなければならないのではないかと。

 

また、心がとても清くないとなれないとも思っていました。

 

人の苦しみを理解し、困っている人を助け、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に出てくるような、そんな人でなければ悟れないとか考えていました。

宮沢賢治の雨ニモマケズ

そうは思いながらも、本を読んだりして、あるときは「いや、悟りは誰にでも到達できるはずだ。できなければおかしい」と考えたり「やっぱり悟るには、聖人君子でなければならない」と考えたりするなど、右往左往していました。

 

私がそういった疑念から晴れたのは、youtubeで、ある動画を観てからです。

それはこの動画です。

脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士が、脳卒中になったときのお話です。

 

脳卒中になった彼女は、左脳の動きがほとんど止まってしまいますが、脳科学者としての見地から、その状況を克明に記憶し、それを説明してくれています。

 

彼女のお話は、まさに悟った人が話す内容と酷似しているんです。

この動画で私は「悟り」というものに実感を持つことができました。

 

悟りの仙人から、悟りの見地について話されても、私としては「それはあなたの妄想でしょ」という考えが頭を離れません。

しかし、脳科学者が悟りの見地と同じことを話していたとしたら、なんとなく信じられてしまいませんか(笑)

 

安易な考え方ではありますが、ガチガチに頭が固い私なんかは、悟りというものを理解するために、よりスピリチュアルな方面に向かうよりも、むしろ科学的な見地で説明された方が説得力があると感じるのです。

 

右脳、左脳、それぞれの役割におけるテーラー博士の説明

さて、それでは右脳、左脳がそれぞれどのようなものか、テーラー博士のご意見をきいてみましょう。

それはこの動画の3分40秒ごろに解説されています。

 

彼女曰く「右脳にとっては“現在”がすべてです」とのこと。

これはまさに悟った人がよく言いますよね。

「『いま、ここ』しかない」と。

 

そしてテーラー博士は「左脳にとっては過去と未来がすべて」だと言います。

これも悟りの先生がよくおっしゃいますよね。

「思考」や「エゴ」という言い方で。

 

エゴにとっては、現在よりも過去と未来が大事。

過去の失敗を思い出しては嘆き、未来はそうならないようにと努力する。

そのためには、いまはどれだけ苦しくても仕方がない。

全ては過去の自分を払拭し、明るい未来につなげるためだと。

 

そうエゴは私自身を説得しようと試みてきます。

そしてこのエゴの理屈は、至極もっともなんですよね。

このエゴの理屈には首肯せざるを得ません。

そうして、このエゴの言うことを信じて、私は30代まで頑張ってきたわけですが。。

 

ですが、それで幸せになれましたか?

 

もちろん、楽しいこともありましたし、いまも幸せです。充足し、満足した生活を送っています。

しかし、何かが足りない。欠けている。寂しい。辛い。悲しい。苛立たしい。妬ましい。羨ましい。

そういう思いがどうしても消せません。

 

その思いを消そうと、そして未来が幸せであるようにと、いまもひたすら頑張っているわけです。

しかし、いつまで経っても、その“幸せな未来”は来ない(笑)

いつになっても幸せは“未来”のまま、いまはつねに苦しいわけです。

 

そしてこのエゴ=思考=左脳について、テーラー博士はこう言います。

動画の5分20秒頃です。

「左脳は言語で考えます」

「その小さな声が私に囁きます『家に帰る途中でバナナを買うのを忘れないで』」

「計算的な知能が洗濯をするよう思い出させます」

 

これは左脳の良い面ですよね。機能的な部分です。

しかし一方で、この左脳のために、世界から我々は分断されているとも指摘しています。

 

テーラー博士が体験した、右脳がもたらす幸福の世界

右脳、左脳の働き

テーラー博士は脳卒中になり、左脳の機能が瞬間的に失われました。

そのときのことをこう語っています。8分20秒すぎからです。

 

「左脳のささやきが完全に途絶えました」

「まるで誰かがテレビのリモコンを取り、ミュートボタンを押したかのように全くの静寂になりました」

「すぐに周囲の大きなエネルギーに魅了されました」

「全てのエネルギーと一体になり、それは素晴らしいものでした」

「私はこの空間を親しみを込め『ララランド(陶酔の世界)』と呼んでいます」

「外の世界と自分をつなぐ脳のしゃべり声から、完全に切り離されているのです」

「この空間の中では仕事に関わるストレスが全て消えました」

「平安で満ち足りた気分になりました」

「想像して下さい。37年間の感情の重荷から解放されるのがどんなものか!」

「ああ! なんという幸福。幸福。とても素敵でした」

 

これです。

これこそが悟りの境地です。

 

もちろん、脳卒中を適切に対処できなくなるまでになってしまうのは問題ですが、少なくとも、このように左脳が止まり、右脳が活性化することでとてつもない幸福状態になることはご理解頂けたと思います。

 

我々にとって、目ざすべき悟りの境地はここだと思います。

 

これを科学者の見地だけではなく、僧侶の見解からもみてみましょう。

著書「怒らないこと」で有名なスリランカ出身の僧侶のアルボムッレ・スマナサーラさんもこの動画でおっしゃっています。

5分30秒ごろです。

「思考をやめるのは物凄い難しい」

「左脳が、何兆もの細胞が思考させるために構えているのだから大変です」

「しかし、ちゃんと頑張る(思考を止める)とだいたい2週間で成功します」

「思考を止めてみたら悟れます」

「たったそれだけです」

 

えっ!

思考を止めたら悟れるんですね!

 

「思考を止めたら悟れます」とあっさり言われて、とても私は勇気づけられた心地がしました。

思考を止めて、右脳に任せること。これが悟りの鍵なのです。

 

まとめ

悟りという状態は、私が思うに、 右脳による直感的な判断と左脳による論理的な判断のバランスがうまく保たれた状態のことを指すのだと思います。
 
 
しかし、現代人においては、そのバランスが崩れ、生活時間のほとんどを左脳に占拠され、左脳の言うままに動いてしまっているのではないか、ということです。
 
 
私は胡散臭いものは信じられませんので、この悟りがファンタジー映画のようなものであれば、今でも疑念を持っていたはずです。
 
しかし、テーラー博士による右脳の説明は、ほとんど神秘的なものですが、論理的であり、仕組みがよく分かるものでした。
 
 
繰り返しになりますが、悟るために重要なのは左脳の抑制にあるわけです。
 
そして、左脳を抑制するためには思考を止めること。
 
 
思考を止めることで、スマナサーラ長老がおっしゃるように、悟りを開けるのです。
 
あなただって、悟れるはずです。
 
一緒に頑張って悟りましょう!